ヘルーン(ペルガモンの王たちを死後に奉った所)
ペルガモン王朝、アタロス王朝の軍事拠点
別名
ベルガマ(Bergama)
所在地
トルコ共和国イズミル県ベルガマ(Bergama)
歴史等
ペルガモン(ベルガマ)の建国に関しては明らかではないが、神話によるとトロイ戦争当時にさかのぼる。トロイの滅亡炎上後、ヘクトールの妻アンドロマケはアカィア軍に捕らわれ、アキレウスの息子ネプトレムスと結婚し3人の子供を設けたという。その一人ペルガモスが建設したペルガモンスが後にペルガモンに、さらにベルガマに変わったという。
紀元前560年には、この西アナトリア一帯はリディア王国のクロイソスの支配下に入っていたが、その後ペルシャの支配下に入れられた。
紀元前334年、マケドニアのアレクサンダー大王がアナトリアに遠征してきて、ペルシャのダリウス三世を打ち破り、西アナトリアはペルシャから解放された。
紀元前323年にアレクサンダー大王が亡くなると、広大な領土は重臣たちによって分割され、南と西アナトリアはリシマコスが手にした。リシマコスはペルガモンを軍事基地とした。
その後、リシマコスがシリアとの戦いで戦死すると、その部下であったフィレタイロスが跡を継ぎ、ペルガモン王朝を築いた。
フィレタイロスには男の子がなく、その後、王国は甥のエウメネス1世、そして息子アタロス1世、さらにはエウメネス2世、アタロス2世・3世と続き、大いに繁栄した(アタロス王朝)。この王朝はローマとともにシリアと戦い、小アジアにおける交易の権益を得た。その富をバックにギリシャ文化を取り入れたアクアポリスの建設が次々と行われた。
しかしその後、アラブの攻撃を受け、19世紀には神殿をドイツに持ち去られ、ヘレニズム都市の面影は奪われていった。
『「地球の歩き方・イスタンブールとトルコの大地(ダイアモンド社刊)」、「現地誌ペルガモン(Keskin color社刊)」より』
現況・登城記・感想等
トルコ人添乗員のエルキンさんの話によると、トルコには3万5千もの城塞が残っているそうである。その中で、今回は10箇所ほどを訪問、或いはバスや船から見ることが出来た。そして、今回の訪問史跡(トロイ、ベルガモ、エフェス等々)の中で、ベルガモはエフェスに次いで遺構が良好に残っているとのことであった。
私には、前の訪問地トロイでも充分見るに値するものであったが、ベルガマのアクアポリスはさらに素晴らしい遺構の数々で圧倒された。
まず、山上にアクロポリスの城壁等々が見え始めた時から、既に興奮し始めてくる。そしてその山の螺旋状の道をバスが登り始め、至る所に石垣が見えて来ると益々・・・。そしてヘルーン傍の駐車場に到着。
「アテネ神殿」「トラヤヌス神殿」「武器庫」の方の石垣群を見上げて感動、写真をパチパチ、添乗員エルキンさんの話もそっちのけ。それにしても「ヘルーン」辺りから見上げる石垣群は見事だ。
次に、トラヤヌス神殿跡に上がる。神殿の大理石の柱や礎石等々も素晴らしい。地下にも部屋等があるようだ。そして、そこから見下ろす劇場の石段、その向こうには赤い屋根が映えるベルガマの町並みの風景も素晴らしい。
さらに、神殿の裏へ登って行くと、武器庫跡の石が散乱する姿も見応えがあった。
観光ツアーでの見学であり、時間も場所も制限があり、ほんの一部だけしか見学出来なかったが、それでも、その醍醐味は充分味わえたような気がする。
(2008/03/14登城して)
ギャラリー
古代ペルガモン市街図(現地誌ペルガモンより) ~クリックにて拡大画面に~
ペルガモンのアクロポリス全景
登城
観光バスの駐車場前に無造作に壺が置かれていた。 トロイの遺跡にもあったが、穀物の保存などに使われたという底の尖った壺であろう。その右手前方上には城壁が見える。
ヘルーン(王家の社)①
一方、左手にはヘルーンと呼ばれる王家の社が見える。アタロス1世(BC241~BC197)とエウメネス2世(BC197~BC159)の栄誉を記念して建設した社(やしろ)であった。ヘレニズム時代には英雄は死後も厚い尊敬を受けて神格化されてヘルーン(社)に祀られて信仰されたのだという。
ヘルーン(王家の社)② ~クリックにて拡大画面に~
ペルガモンのヘルーンは、中庭を小部屋が取り巻く形で、これらの小部屋は祭やその他の目的に使われた。ここから見上げる、見事に残る石垣群には圧倒された。背後に見える城壁は、王宮をめぐる城壁であろうか?
石垣
左手にヘルーンを見ながらアテナ神殿に向かって登って行くと、石垣が・・・。この廃墟のような光景が、何ともいいですね(*^_^*)。
アテナ神殿①
この神殿は紀元前4世紀のもので、ペルガモンの神殿としては最古のものである。ヘレニズム芸術の最高傑作と言われる「瀕死のガリア人」など、見事な彫刻群が飾られていたそうである。
アテナ神殿②
ゼウスの祭壇(大祭壇)
紀元前190年、ペルガモン王国の黄金時代を築いたエウメネス2世が宿敵ガラティア人との戦いの勝利を神に、特にゼウスとアテナに感謝して捧げた祭壇で、下市は勿論、西のセリヌスの谷からもよく見える位置に有り、ヘレニズム時代の最も重要な記念碑的建物であった。
1871年に、ドイツの鉄道技師カール・フーマンが発見し、出土した品はベルリンに運ばれた。現在はベルリンのペルガモン博物館に復元されている。
トラヤヌス神殿①
ローマ帝国時代、皇帝に神殿を捧げるのは選ばれた都市のみに与えられる大きな栄誉で、このネオコロス=皇帝神殿を建立した都市としての許可を得るため、帝国各地の大都市は凌ぎを削った。この神殿はローマ皇帝トラヤヌスの許しを得たが完成前にトラヤヌスが世を去り、後継者ハドリアヌスの理解を得て建設された。
高い腰壁に乗った神殿は平野を見下ろしていたが、アクロポリスのほとんどの建物は灰色やピンクがかった安山岩で出来ていたので、全て白大理石のこの神殿は遠くから人目を引いたことであろう。
トラヤヌス神殿②
トラヤヌス神殿は周柱式建築で、コリント式柱が6×10本並び、3方を回廊が取巻いていた。
この神殿は現在、オリジナルに沿って修復作業が進められているとのことであるが、私には、その気配は全く感じられなかった。
トラヤヌス神殿③
北側の柱の土台は他よりも5mも高く据えられた。
ペルガモン遺跡に唯一残された白大理石の彫像
劇場 ~クリックにて拡大画面に~
ペルガモンでは、その長い歴史を通じて、3つの劇場が建設されたが、最も重要なのがこのヘレニズム時代の劇場である。ローマ帝国時代に改修されているが、扇形に上に向けて広がっている。収容人員は1万人であった。下の方に設けられた貴賓席は大理石造りで、一般席は租面岩と安山岩で出来ている。音響が非常に良いように造られており、また、眺望を遮らないために、舞台は催物の時だけに組まれる木製のものだったという。
武器庫
ここには武器や武具だけでなく、食料なども蓄えられていた。この建物が出来たのは紀元前2~3世紀で古代世界最古の軍用倉庫といえるものである。
貯水槽
武器庫には大きな貯水槽が残っている。コインを投げて、真ん中にある石の上に上手く乗ったら願い事が叶うとのことで、私もやってみたら、見事に乗ったが、後で考えたら、願い事を考えずに投げていた。
武器庫跡からトラヤヌス神殿跡を