南部藩砂原陣屋(森町、旧砂原町)

南東部土塁上から郭全景を

北辺警備のためにモロラン陣屋の分屯所として築造された陣屋

別名

砂原南部藩屯所

所在地

北海道茅部郡森町字砂原3丁目
【アクセス】
渡島砂原駅の前(北側)を通る国道278号を800mほど西進すると右手に「砂原陣屋跡」の大きな看板が現れるのですぐ分かります。陣屋跡の中に駐車スペースがたっぷり有ります。
(国道278号線沿いに建つ「砂原陣屋跡」の看板と虎口)
IMG_3701

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 史跡公園
【遺構等】 郭、土塁、石垣?、空堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/08/01

歴史等

18世紀末、帝政ロシアが千島・樺太へ次々と南下侵攻してきて、幕府にも蝦夷植民地化の危機感が広がった。幕府は、嘉永6年(1853)のペリー来航により、箱館開港と箱館奉行所を設け、安政2年(1855)には、松前藩任せでは無理との判断から蝦夷の直轄を決めた。
そして、幕府は、津軽藩・南部藩・仙台藩・秋田藩・松前藩の5藩に分担で蝦夷の警備を命令した。南部藩は、箱館から幌別までの海岸一帯(約248km)の警備を命ぜられた。
現地調査にあたった上山半右衛門、新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)は、仮想敵国ロシアは港から侵攻すると想定した陣を敷いた。津軽海峡を守る箱館元陣屋に主力を置き、絵鞆(現室蘭市)に出張陣屋(モロラン陣屋)を、ヲシャマンベに屯所(ヲシャマンベ陣屋)を置き、この砂原の地にも安政3年10月から翌年1月にかけて、砂原分屯所として陣屋を築造した。
陣屋は、駒ケ岳を背に海岸に面して構築され、本郭は東西約37間(約66.6m)、南北約33間(約59.4m)の方形で、周囲に高さ約1丈(約3m)の土塁をめぐらし、さらに土塁上に柵を設け、その外側に深さ6尺(2m弱)の空堀を回していた。
明治元年(1868)7月に陣屋内の家屋等を壊して引き揚げるまで、常に約30名の藩兵が駐屯していたという。
『「現地説明板」、「モロラン陣屋跡説明板」、「室蘭民俗資料館内展示&印刷物」、「日本城郭大系1」参照』

現況・登城記・感想等

砂原陣屋は、僅か30名ほどの藩兵が駐屯していた陣屋としては規模も大きい上、郭の周囲をめぐる土塁が完存し、充分見応えがある。
説明板などによると、土塁の高さは約3mとのことだが、今では2m前後くらいだろう。また、土塁の北西部外側には、石垣が確認されるが、目地をコンクリートで固めてることから考えると、土塁の土留めのために、後に築いた石垣であろう。
西側土塁等々コンクリートで固めてない部分もあるが、逆に、こちらは、当時のものにしては、あまりにも雑な積み方だが・・・?
一方、「日本城郭大系1」によると、空堀は駒ケ岳からの流出土砂で埋まったとあるが、東側土塁の外側は畑にはなっているが、周囲より低くなっており、空堀跡と考えても良いのではないだろうか。
いずれにして、登城前には、あまり期待をしていなかったが、規模といい、郭周囲の完存土塁といい想定以上の陣屋跡に出逢えたのはラッキーだった(*^_^*)。
(2012/08/01登城して)

ギャラリー

南側虎口
虎口は、南側と北側の2ヶ所あり、この国道278号線沿いの南側虎口の前には石碑が建っています。
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北側虎口
内浦湾に繋がる、この北側虎口が大手口のようです。
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大手虎口前から郭の東部分を
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大手虎口前から郭の西部分を
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南東隅土塁上から郭全体を
郭は東西約37間(約66.6m)、南北約33間(約59.4m)の方形で、周囲に高さ約1丈(約3m)の土塁をめぐらしていた。ただ、現在は、土塁の高さは2m前後で、高い所でも2m半程度です。
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南西隅土塁上から郭全体を
西側土塁上は、土塁側面の石垣改修のためか、多くの人が歩くせいか、草が生えていません。 
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北西部土塁外側
土塁の北西部外側には、石垣が確認されるが、目地をコンクリートで固めてあることから考えると、土塁の土留めのために、後に築いた石垣であろう。
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西側土塁外側
逆に、こちらは、あまりにも雑な積み方でが?
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空堀跡?
東側土塁の外側は畑にはなっているが、周囲より低くなっており、空堀跡と考えても良いのではないだろうか。
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