本丸への枡形虎口
伊達晴宗が桑折西山城から米沢に拠点を移した際の主城で政宗生誕の城?
所在地
山形県米沢市大字舘山
【アクセス】
国道121号で鬼面川を西へ渡った200m先の「舘山発電所前」バス停付近で左折し、80m程南下した橋の手前左手に説明板があります。橋を渡って、道なりに南東へ向かって行くと多くの案内板や標柱が立ち、そこに駐車場(東館跡)があります。
所要時間
駐車場(東館跡)から山頂部まで4~5分。今回の見学総時間は45分。
形状
平山城(標高310m、比高40m)
現状・遺構等
【現状】 山林他
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、枡形虎口、堀切、竪堀、石垣、井戸、遺構案内板、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2015/10/25
歴史等
舘山城には関しては以下の通り諸説あるようです。
①もとは奥州藤原氏の一族新田経衛の居館であったが、至徳年間(1384~879に伊達政宗(9世)に滅ぼされ、その後伊達氏に従い舘山城を守ったが、元亀元年(1570)に伊達輝宗に滅ぼされ、その後輝宗が隠居所として居城した。そして、政宗(17世)が18歳で家督を継ぎ、天正15年(1587)に大規模な築城に取り掛かったが、天正19年に岩出山城へ移った。
②天文17年(1548)に伊達晴宗が桑折西山城から米沢に拠点を移した際の主城とし、以後、輝宗、政宗と伊達氏が本城とし、天正19年(1591)に政宗が岩出山城に移った。
勿論、舘山城跡の説明板は②を取り入れてます。
また、政宗の誕生地も、従来は米沢城とする説が主流であったようですが、資料に出て来る米沢城とは舘山城のことであり、政宗の誕生地もこの舘山城であったという説があるそうで、勿論、当城跡にも「伊達政宗公生誕の地」と書かれた手作りっぽい標柱が立てられています。
いずれにしても、まだまだ解明されていないことが多いようです。
『「日本城郭大系3」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
舘山城跡は、大樽川と小樽川に挟まれた舌状台地上に築かれた山城(詰城)と、その麓の居館から構成された城で、トータル的にはかなり規模の大きな城であったようです。
山城は、全長300mほどと、規模はそれほど大きくはありませんが、南北側面と東側の3方が急崖の天然の要害地に築かれています。
その西から東へ延びる台地上には、連郭式に曲輪が設けられ、曲輪間を区切る大規模な土塁と堀切は迫力満点です。
また、発掘・復元された主郭への枡形虎口も見応えがあります。
まだ発掘調査が進んでいるようで、いつか再登城することがあれば、さらに見応えのある城跡になっていることでしょう。
しかし、当城跡でもっと面白いというか微笑ましいと思ったのは、何ともユーモアのある標柱や過剰なほどに親切な多くの案内板です。癒されたような気がします(笑)。
(2015/10/25登城して)
ギャラリー
舘山城跡駐車場(東館跡)・・・w(*゚o゚*)w
説明板を見た後、舘山城跡の東麓の東館跡へ向かうと、こんな標柱がw(*゚o゚*)w。最初、上の部分「私有地に付」を見てエエ~ッ!と思いました。そして、下の部分「立入り大歓迎」を見て一安心というか、大笑いしてしまいました。何とユーモアのある地主さんでしょう。友達になりたいですネ(笑)。この標柱の奥が駐車場です。
虎口(城門)跡
駐車場(東館跡)の東側には大樽川が流れています。その手前に東館への虎口(城門)があったようで、元禄時代には写真左の大樽川に沿ったところは道路だったそうです。
伊達政宗公生誕の地の標柱ほか・・・
東館跡には「伊達政宗公生誕の地」をはじめ、手作り感いっぱいの案内板が立っています。地元の保存会の方々によるもののようですが、嬉しいですね。背後の石が積まれたところは井戸跡で、石は井戸から出土したものです。また、東館跡には他にも多くの井戸があったようです。
東館跡と舘山城(山城)
東館から山城(館山城)を見上げたものですが、東(手前)側は、発電所建設のため破壊されているようです。山城への登城口は、写真左奥です。
登城口前に杖が・・・
登城口前には登山用に杖(スキーのストック)が置かれ、御親切に「本丸に登る方、どうぞお使い下さい。帰りにまたここに。舘山城保存会」と書かれた案内板が・・・。
登城口(大手口)
いよいよ大手口から山の上へ登ります。背後(写真右奥)に見える案内板には「見学者の方へ 足元が滑りやすく危険です。風の強い日は枝も落ちてきますので頭上も注意して見学して下さい。 米沢市境域委員会」と書かれています。どこまでも親切です。
登城道
舘山城(山城)へは、南側斜面の九十九折れの道を登って行きます。斜面は確実に30度以上はあり、スキーの斜滑降を思い出しました(笑)。
南門跡
山麓から4分ほどで山頂部(曲輪Ⅱ)の虎口(南門)跡へ出ます。ちょっとした枡形虎口になっているのが分かります。
曲輪Ⅱ
虎口から入ると曲輪Ⅱへ出ます。ここに「主郭(本丸)」という案内板が立っていましたが、山麓の説明板の縄張図では「馬出曲輪(曲輪Ⅱ)」となっています。東側が発電所建設により破壊されているので、よく分かりませんが、曲輪周囲の堅固さを考えたら、やはり「曲輪Ⅱ」だと思います。
曲輪Ⅱの西側(写真左側)には土塁が設けられ、北西隅(写真中央奥)には石積みの枡形虎口が設けられています。
出土した石
曲輪Ⅱには丸石が積まれた石垣のようなのがありましたが、これは発掘調査中に出てきたものが積まれているもので、勿論、石垣遺構ではありません。
曲輪Ⅱの西側の土塁
曲輪Ⅱの西側には土塁が設けられていますが、これは曲輪Ⅰ(本丸)とを区切る土塁で、曲輪Ⅱ側から高さ2mほどあります。また、土塁の北端(写真右奥)に本丸へ通じる枡形虎口が設けられています。
本丸(曲輪Ⅰ)へ通じる枡形虎口
発掘調査によって出土したものでしょう。石垣の底辺部が一部残っています。なかなか見応えがあります。
枡形虎口(本丸側から)
本丸側から撮ったものです。底辺部の石垣がかなり残っています。
本丸と曲輪Ⅱを区切る土塁と堀切
本丸(曲輪Ⅰ)と曲輪Ⅱを区切る土塁の本丸側には堀切があります。往時は幅12m、深さ6mあったそうですが、現在は、幅が6mほどで、堀底から土塁上まで高さ4mほどです。
竪堀
堀切には2条の竪堀も施されていたようで、鉄壁の構えですね。これらの防御体制を考えると、先程の曲輪Ⅱが本丸だったのかもしれませんね。
本丸西側の土塁
本丸の西側には高い土塁が設けられています。
本丸西側の土塁②
本丸西側の土塁は、高さ5mはある大規模なものです。
土塁上から本丸を
本丸西側から撮ったもので、奥に見える土塁は、本丸と曲輪Ⅱを区切る土塁です。
本丸の西側を断ち切る大堀切
写真ではお伝えできませんが、この大堀切は物凄い迫力があります。幅10m以上、深さは8m以上あるのではないでしょうか。
曲輪Ⅲの物見台
堀切の向こう(西側)は曲輪Ⅲですが、正面に物見台が見えます。堀切には、土橋が設けられていたようですが、土塁のところに虎ロープがはってあったので登って行くのは断念しました。尤も、そう簡単に登れるような傾斜ではありませんでしたが・・・。
本丸東側下を見下ろす
舘山城の東側は大樽川が流れていますが、本丸から南側下を見下ろすと見事な紅葉が見えましたが、とんでもない断崖絶壁ですw(*゚o゚*)w。こちら側から攻め上がって来るのはとても無理でしょうね。
本丸北側の竪堀
本丸北側には腰曲輪があり、そこから真下へ竪堀が設けられ、発掘調査中のようでした。下りて行きたかったのですが、雨上がりで滑りやすいので諦めました。