武蔵 喜多見陣屋(世田谷区)

江戸氏の墓

最初に江戸城の地に居館を構えた武蔵江戸氏の末裔喜多見氏の陣屋

所在地

東京都世田谷区喜多見4丁目17−1(慶元寺周辺)
慶元寺:電話03-3416-1221

形状

陣屋

現状・遺構等

現状:宅地等
遺構等:江戸氏一族の墓、江戸重長銅像

満足度

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訪城日

2011/01/29

歴史等

武蔵江戸氏は、平安時代の末(11世紀)に秩父重綱の四男重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。
重継は後の江戸城(現皇居本丸、二の丸周辺)の地に居館を構えたという。 重継の子重長は、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した時、初め頼朝と対立して石橋山で戦ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。重長は「武蔵国棟梁」と呼ばれ、江戸氏の隆盛の礎を築いた。
南北朝期、江戸氏は、初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えたが、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退していったという。
その後の江戸氏は、確かな資料がなく不詳であるが、庶流といわれる喜多見(現世田谷区喜多見)に退いた江戸氏は、後北条氏に属して世田谷城主吉良氏に仕え、家名を維持した。
しかし、天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めの余波を受けて、世田谷城も攻撃され、城主吉良氏朝は下総に逃れた。
徳川家康が江戸に入ると、江戸勝忠は家康に仕え、喜多見の地を安堵された。そして、江戸氏を改めて、喜多見氏とした。 勝忠から数えて3代目重政は5代将軍綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩、喜多見村慶元寺前に陣屋を構えた。重政は綱吉の「生類憐みの令」による犬大支配役になったが、元禄2年(1689)、突然、除封され、廃藩となった(職務怠慢の咎とされるが、分家の刃傷事件に連座したともされる)。
『「国別・藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「ウィキペディア」ほか参照』

現況・登城記・感想等

世田谷区、特に成城周辺はなじみ深い場所ではあるが、久しぶりに訪れ、小田急線「喜多見駅」から歩いて行ったが、相変わらず道がややこしく捜すのに随分手間取った(汗)。
喜多見陣屋は、慶元寺前に構えられていたということではあるが、周辺はすっかり住宅密集地となってその中に埋もれてしまい、往時のよすがを思い起こさせるものといえば、慶元寺への参道奥(門の右手前)に立つ「江戸重長の像」と墓地内にある「江戸氏の墓所」くらいしかない。
(2011/01/29訪れて)

ギャラリー

慶元寺門前
慶元寺は、文治2年(1186)3月、江戸重長が、今の皇居紅葉山辺りに開基した江戸氏の氏寺で、室町時代の中頃に江戸氏の木田見(現喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移った。文禄2年(1593)、江戸氏改め喜多見氏初代の勝忠が再建した。
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慶元寺参道
門前からまっすぐ進む杉並木の参道は気持ちいい。 
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江戸重長の像
参道を進むと、右手(山門手前)に江戸重長の銅像がある。
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慶元寺
慶元寺の本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する東京区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。
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㊧江戸氏墓所の案内碑、㊨江戸氏墓所と三重塔
山門に向かって右手前が墓地で、入口隅に江戸氏墓所の案内碑がたっている。江戸氏の墓所は、墓地内に立つ三重塔へ向かって行くと入口と三重塔の中央辺り左手にある。
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コメント

筏師(2016/03/23)

近所の寺や神社にこういうイワレがあるとは思ってもみなかった

タクジロー(2016/03/23)

筏師さま
ご訪問をコメントありがとうございます。
これからも時々、当サイトへ寄って下さい。

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