三の丸馬出し郭から見る本丸西の空堀
武蔵大石氏が築城、河越夜戦後に北条氏照の持城に
別名
本郷城
所在地
埼玉県所沢市城(城山神社)
【アクセス】
東所沢病院のすぐ東の城山神社一帯が城跡
東所沢病院:所沢市城435番地1号、電話04-2944-2390
*滝の城址の近くに滝の城址公園がありますので間違えないでください。
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 城山神社他
【遺構等】 曲輪、土塁、櫓台、空堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2013/08/06
歴史等
滝の城は、戦国時代に、武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した大石氏に「よって築かれた。
14代定久(法名道俊)の時、主君の上杉憲政が天文15年(1546)4月20日の河越夜戦で小田原の北条氏康に敗れたため、定久は氏康に降り氏康の二男氏照を養子として家督を譲った。
以来、滝の城は氏照の持城で滝山城の支城となり、永禄7年~天正5年(1564~77)の氏照の下野出兵の際には陣揃の地になったといわれている。
その後、氏照は天正15年(1587)には八王子城に移ったので、滝の城は八王子と北関東を結ぶ重要な連絡地点となった。
しかし、天正18年(1590)7月小田原城落城後は関東一円が徳川家康の領国となり、滝の城は廃城となった。
『現地印刷物他より』
現況・登城記・感想等
「滝の城」は、以前から気になっていた城址ですが、我が家から比較的近いのでいつでも行けると思い、逆になかなか訪れませんでした。今回、たまたま近くに用事があったので寄ってみようかと思いついたが、何せ、強烈な暑さです。散々、迷った末、意を決して訪れることにした。
そして、最寄の駅である武蔵野線「東所沢駅」に到着。駅の近くの交番で「滝の城」への道を尋ねると、近くまでバスが出ているとのことだが、1時間に1~2本のようです。
東所沢駅から2km弱らしいので、歩いて行こうと思ったが、「兎に角、暑い(;´▽`A``」。結局、タクシーを利用することにしたが、乗ってみると、結構遠かったので、猛暑の中、歩かなくて良かったです( ̄ー ̄;。
「滝の城」へ到着すると、「城山神社の碑」と「滝の城の縄張り案内板と幟」が立ち、その奥に立派な土塁と空堀が見える。これを見ただけで、想像を遥かに超える素晴らしい城跡であるのが分かった。胸ワクワクです(*^_^*)。
何しろ、所沢は、完全に東京への通勤圏です。そんなところに、決して有名でもない城址が、良好に残っているわけがないと思い込んでいたのですから・・・。
滝の城は、土塁で囲まれた本丸・二の丸・三の丸が完存しており、各曲輪間は空堀で区分されている。しかも、その空堀が、深くて幅も広い大規模な上、折れがかっこ良く、見応え満点です。
往時は、二の丸や三の丸の外周の住宅地も城域で、かなり大規模な城で、外堀も設けられていたようです。さすがに外堀は住宅地の中に埋もれてしまっているが、一部だけとはいえ物見台の跡が何とか残っている。
つくづく、猛暑の中を登城して正解だと思いましたね(*^_^*)。
(2013/08/6登城して)
ギャラリー
滝の城周辺概略図(現地観光ポスト内パンフより)
滝の城主郭部縄張略図
さあ登城です
東所沢病院のすぐ東側にある城山神社一帯が滝の城址主郭部である。城址の北西角に城山神社の碑とともに、滝の城縄張案内板や幟が建てられ、その背後に立派な土塁と空堀が見える。これを見ただけで、想像を遥かに超える素晴らしい城跡であるのが分かり、胸ワクワクです(*^_^*)。尚、写真左側の道路も空堀跡のようだ。
空堀と土塁
主郭部の最も西側の空堀です。空堀は、かなり大規模で、幅5m以上、堀底から左の土塁上までの高さは4mほどある。土塁の左(東)側にも空堀があり、二重堀になっている。空堀の外(西)側は、今は壊されて道路が通っている。
二重堀
右側の土塁が、上写真の左側土塁に当たる。
二重堀内側の空堀
見事に残る空堀です。正面奥の土塁上は社務所ですが、二の丸の一部だったのではないでしょうか。
本丸へ
幟が立ち並ぶ土塁前の道に沿って、東へ向かうと空堀へと突き当たる。空堀の奥(写真左)は二の丸跡で、城内へは、そこを右へ曲がり、写真右に見える土橋(幅が広すぎるので、往時のままかどうかは疑問)を渡って入城する。
二の丸西側の土塁
二の丸は、西側から北側にかけて、大規模な空堀が取り巻いている。幅7m以上、堀底から二の丸上までの高さは5mほどあるでしょう。
土橋西側の空堀
先に見た二重堀の内堀に当たる空堀ですが、こうして見ても見応えがある。
二の丸
土橋を渡ってすぐ左手に二の丸跡がある。二の丸周囲は低いながらも(高さ1m前後)、周囲には土塁がめぐっている。尚、社務所脇の観光ポスト内に置かれていたパンフレットの縄張り図では、当写真部分が二の丸となっているが、社務所部分も合わせて二の丸であったであろう。
二の丸北側の空堀
二の丸北側下には、西側から空堀が続いている。当写真は、二の丸土塁上から撮ったもので、写真左奥の土塁は物見台跡、右奥土塁は三の丸馬出し郭です。
本丸へ向かう
二の丸をあとにして本丸へ向かう。本丸へは、これまた大規模な空堀に架かる土橋を渡って入って行く。本丸虎口の左側土塁は高く、櫓台でしょうか。
土橋左側(本丸西側)の空堀
本丸虎口への土橋両側の空堀、即ち、本丸周囲の空堀も大規模で、幅7m以上ある。
土橋右側の空堀
本丸
本丸跡には、城山神社社殿が建っている。
本丸跡に建つ城址碑と説明板
本丸跡からの眺望
本丸跡からの眺望は良く、眼下には滝の城址公園の野球場やテニスコート、その向こうには所沢市の街並みや関越自動車道が見える。
本丸周囲の土塁
本丸周囲には、低いながらも土塁がめぐっている。当写真の土塁は社殿東側の土塁です。
四脚門跡
社殿の裏に廻ると、低い土塁の上に四脚門跡の説明板が立っている。説明板によると「平成2年4月の発掘調査により四脚門が検出された。門跡は、北側の馬出し郭、三の丸に続く通路として引橋がかけてあったが、天正18年(1590)の落城に伴う火災で焼失した。」という。
四脚門跡から三の丸馬出し郭を望む
四脚門跡から三の丸方面を見ると、その間には深くて幅広い空堀が見えるが、ここに引橋が架かっていたのですね。
本丸櫓台
社殿の西側脇は櫓台跡なのでしょうか、他の部分よりも少し高くて、幅も広く、稲荷社が祀られている。
本丸西側の空堀を見下ろす
本丸から西下を見下ろすと、大規模な空堀が見える、多分、深さ5mほどでしょうが、迫力たっぷりで、もっと深く見えます。
二の丸から三の丸へ続く土橋
本丸を見終え、次は二の丸脇から三の丸方面へ向かいます。長~い土橋がかっこいいですね。土橋右は本丸西下の空堀で、土橋の向こうは三の丸馬出し郭です。
三の丸馬出し郭から二の丸西の空堀を
土橋の途中から振り返って二の丸方面を望むと、二の丸西側の空堀が・・・。折れのある空堀(土塁)が実にかっこいいです。当城址の見どころの一つですね。
本丸と三の丸(馬出し郭)との間の空堀と土橋
先程の四脚門跡の説明によると、この辺りに引橋が架かっていたようです。堀の一部に土橋があるが、その上に引橋が架かっていたのでしょう。土橋は、その橋脚を短くするためのものでしょう。
三の丸(馬出し郭)から本丸西下の空堀を
左上が本丸、右側が二の丸から三の丸(馬出し郭)へと続く土橋、右奥が二の丸です。滝の城の空堀は全て大規模でかっこよく、この光景がすっかり気に入りました。
三の丸
三の丸も低い(高さ1m弱)ながら、周囲をめぐる土塁が残っています。
三の丸から見る二の丸西の空堀、右の土塁は物見台
三の丸から振り返って見ると、二の丸西の折れのある空堀が良く見えますが、実にかっこいいですよね。これが当城最大の見どころだと私は思います。
三の丸東側の空堀(堀底道)
三の丸の西~北~東にかけても空堀が良好に残っています、東側は、堀底道で遊歩道になっています。堀の向こうは、雑草に覆われてはいますが、往時は何らかの曲輪跡だったでしょう。
住宅地に僅かに残る物見台跡
滝の城址主郭部の北は、今では住宅地になっているが、僅かに物見台跡が残っていました。
血の出る松の跡
縄張図によると、主郭部の南の方に井戸跡があるようなので、主郭部の西側の七曲り坂を下りて行くと、途中に「血の出る松の跡」という碑が建っていた。傷をつけると赤色の樹液が出される大きな黒松が立っていたそうで、その赤色から落城した際に討死した城兵の血ではないかという言伝えがあるそうです。現在は、その松も枯れてしまい、この石碑だけが残されているのだそうです。
霧吹きの井戸
七曲坂を下りきった所に残る石組みの井戸跡です。昔、竜が住んでいて、たびたび悪さをしたことから村人たちは竜退治するめに 柳瀬川の対岸に舞台を造り、お祭騒ぎをしておびき出して、弓で射たという伝説があるそうです。