武蔵 杉山城(嵐山町)

南二ノ郭から南三ノ郭の東面の屏風折りの土塁と空堀

遺構がよく残り、中世山城の教科書的な城址

所在地

埼玉県比企郡嵐山町杉山600(積善寺を目標に)
【アクセス】
県道296号「玉ノ岡中南入口」信号を北東へ入り500m程進んで左前方の道へ入り、200m程北上すると「積善寺」があります。この寺の脇が大手入口で寺の前に案内板が立っています。寺の駐車場を拝借するのが良いでしょう。

形状

平山城(標高約100m、比高約20m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石積み、空堀、櫓台、井戸跡、門跡、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2007/02/25

歴史等

杉山城は、戦国時代の築城と推定される。北方に四津山城・越畑城・高見城と連絡し、南方に鎌倉街道を見下ろし、 その遠方に小倉城を臨むという絶好の立地条件から、恐らく、北条氏が武蔵から管領上杉氏を追い払う中で、武蔵松山城と鉢形城とをつなぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられる。
築城年代や城主名等については不明な点も多いが、城主等の伝承として新編武蔵国風土記稿に庄主水と記されている。 庄主水がどのような人物かは不明であるが、地元では、武蔵松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えている。
しかし、近年実施された発掘調査結果による「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書(2005/嵐山町教育委員会)」などに記されるように、出土物や火災跡などの分析から15世紀末から16世紀初め頃の一時的・臨時的な城郭であるとの考古学的見解が示された。
天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐による関東侵攻では鉢形城武蔵松山城などの大規模支城に兵力が集中され、この杉山城を始めとする比企郡に所在する中小の城郭群が直接戦乱の舞台となることはなかったことが結果的に遺構の保存状態の良否に関係しているとも考えられるが、一方、城郭として形式は戦国時代後期の影響を受けているという考え方も有力でその謎はさらに深まるばかりのようである。
杉山城の総面積は、約7.6ヘクタールで、山の高低差を巧みに利用して10余の曲輪を理想的に配置しており、 県内でも屈指の名城址と評価されている。
現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が忍ばれる。「馬出」や 「枡形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛かり」の多用はその典型とされる。
『「積善寺ホームページ・杉山城の門前寺として」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

杉山城は規模の大きな平山城ではないが、実に遺構が良好に残っている。否、建物を除きほぼ完存と云ってもいいのではと思われる。
縄張りは、本丸を中心に三方の広がる尾根に階郭式に曲輪が築かれている。
各曲輪の周囲には、全て空堀が設けられており、城郭全体が空堀だらけといった感じである。空堀は、幅も狭く、深くもなく、あまり大規模ではないが、屏風折りになった空堀と土塁の姿がかっこいい。それは同時に、防御上でも、各曲輪への虎口に横矢がかかることになり、さらに細い土橋と土塁虎口、また一部には馬出が設けられたりして万全な構えとしている。
とは言え、先週、登城した諏訪原城の壮大な(強烈な?)堀群を見た後なので、余計にそう考えるのかも知れないが、各曲輪・空堀・土塁等々、全てが小規模で、実戦で本当に役立つのかなあとも思ったり、又、大砲もなく、鉄砲も少ない当時の兵力ならこの規模でも大丈夫なのかなあと思ったり・・・。
杉山城跡は、私有地だそうであるが、遺構がよく残っている上に、綺麗に整備され、しかも説明板等も充実しており素晴らしい城跡で、本当に楽しく廻れる城跡である。本当に持ち主の方に「激烈感謝」である。
また、地元の小学生も城の整備計画に参加しているようであるが、それによって、その子供達が歴史に興味を持ってくれて、将来、日本の文化財を大切にしてくれるといいな等々(余計なお世話?)考えながら廻った。私は、歴史に出てこない城址には、あまり興味がないが、これだけの遺構を見せ付けられたら別である。それと同時に、これだけの城が、何故、歴史上に出て来ないのかも不思議である。
(2007/02/25登城して)

ギャラリー

杉山城址の縄張り
00杉山城縄張図

積善寺
積善寺の裏が城跡で、寺の右(東)側が大手口になります。当寺の駐車場を拝借して、さあ登城です。
01積善寺

出郭から城跡を
出郭とは、大手の前に配置された郭で、北側(写真右)に低い土塁があります。大手には、直線的に侵入できないように溝が掘られているのが発掘調査で見つかりました。
03出郭

大手口
左方向へ直角に曲がらなければ侵入できない構造で、横矢が掛かった左側に張り出している土塁から攻撃されます。
05大手口

大手虎口の土橋
07大手虎口の土橋

外郭南東の空堀
08外郭南東の空堀

南三ノ郭と南二ノ郭の間の空堀
09南三ノ郭と南二ノ郭の間の空堀

南三ノ郭から南二ノ郭への喰い違い虎口
南三ノ郭から南二ノ郭へ入る虎口は、当城で唯一の喰い違い虎口になっています。
10南二ノ郭と南三ノ郭間の喰い違い虎口

南二ノ郭から南三ノ郭の東面の屏風折りの土塁と空堀
南二ノ郭から南三ノ郭の東面の切岸は横矢を連続してかけており、屏風のようになっている姿が実にかっこいいです。
11南二ノ郭から南三ノ郭にかけての屏風折り土塁

南二ノ郭
写真左の土塁上が本郭です。
13南二ノ郭

本郭南東部下の空堀
本郭南東部も多くの横矢が掛けられた屏風折りになっています。右上が本郭です。
15本郭南の空堀

南二ノ郭(手前)と井戸郭(奥)を繋ぐ土橋
南二ノ郭から本郭へ行くには、土橋を渡って井戸郭へ入ります。
18南二ノ郭と井戸郭の土橋

井戸郭
井戸郭(手前)から本郭(奥)へは、往時は横矢掛かりで防御された木橋(引橋)が架かっていたようです。この井戸郭からは、本郭の様子は土塁によって窺うことができません。また、井戸郭は本郭より低い郭ですが、本郭寄りの部分は橋を渡すためでしょうか、一段高くなっています。右やや上に見える土塁が分かれている所が本郭南虎口です。
19井戸郭

井戸郭から望む西方面の眺望(真下には井戸跡がある帯曲輪)
井戸郭から西方面は眺望が開けており、遥か向こうまで見渡せます。すぐ下には、帯曲輪が設けられており、帯曲輪下は絶壁になっております。尚、この帯曲輪には井戸跡が残っています。
20井戸郭からの眺望

本郭南虎口へ
本郭へ入るために、本郭南虎口へ登って行きます。
21本郭への南虎口

本郭南虎口脇から井戸郭を
本郭南虎口から本郭へ入ってから、振り返って撮ったものです。井戸郭の周囲には土塁が設けられていませんが、周囲を切り立った切岸と空堀で守られているのがよく分かります。
23本郭南虎口脇から井戸郭を

本郭(南東部から撮影)
本郭は西側を除き、周囲を土塁がめぐっています。
25本郭

本郭(北西部土塁上から撮影)
25本郭2

本郭南東下の帯曲輪
25本郭南東の帯郭

城址碑と説明板
本郭の北西端には城址碑と説明板が立っています。城址碑の背後は一段高くて分厚い土塁になっていますが、櫓台と思われます。
26本郭城址碑

本郭北虎口と土橋
本郭の北方面の虎口は強力な横矢掛りに守られています。南西の井戸跡方面から帯曲輪を登り進んできた敵は大きく廻りこまなければ本郭に侵入せきないように工夫されています。
虎口の前には小さな平場(虎口受け)が見られます。土橋の奥が北二ノ郭で、その奥が北三ノ郭で、さらに搦手口へと出ますが行きませんでした。

31本郭北虎口

本郭西の空堀と塁壁
33本郭南西の空堀と塁壁

本郭から東郭を見下ろす
東二ノ郭は、全体的に東三ノ郭に向かって自然の地形のまま、緩やかに傾斜しています。
41東二ノ郭と東三ノ郭

本郭東虎口
27本郭東虎口

東三ノ郭から本郭方面を見上げる
東三ノ郭から東二ノ郭、本郭が階段状に築かれているのがよく分かります。東三ノ郭から東二ノ郭への虎口は、当城では珍しく直線的な坂虎口になっています。
東三ノ郭から本郭を見上げる

南三ノ郭西虎口
東郭を見た後、南三ノ郭へ戻り、南三ノ郭と帯曲輪を繋ぐ土橋を渡って右へ曲り井戸跡がある帯曲輪へと向かいます。
53南三ノ郭西虎口

井戸跡
井戸には分厚い平らな石の蓋がされています。すぐ右土塁上が井戸郭で、正面奥上が本郭です。
以下説明板より。「現在、杉山城跡で確認されている井戸跡はこの1箇所だけです。地山が岩盤なので、現在でもほぼ1年中水がしみ出ており、春先には山椒魚の産卵場所になっています。蓋の石は、おそらく城の造成の際に掘り出されたもので、このように蓋をしたのは、廃城の際に敵方に使われないように水を断つためと思われます。」

井戸跡

南三ノ郭南西部の空堀
規模は小さいですが見事です。というか、かっこいいですね。
63南三ノ郭南西の空堀

南三ノ郭南東の空堀
右側の土塁下は急崖になっています。
65空堀と土塁

馬出し郭から南三ノ郭へ渡る土橋
上写真の土塁の上を東へと進んで行くと、馬出し郭へ出ます。馬出し郭からは、南三ノ郭の南虎口へ繋ぐ土橋が架かっています。
71馬出し郭と南三ノ郭の土橋

南三ノ郭虎口から馬出し郭を見下ろす
馬出し郭からは、南三ノ郭への土橋の他に、外郭への木橋(復元?)があります。
73馬出し郭

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