上総 大多喜城(大多喜町)

本丸跡に建てられた復興?模擬?天守(総南博物館)

徳川四天王の一人、本多忠勝が入城し大修築した城

別名

舞鶴城、小田喜城、大滝城・(根古屋城)

所在地

千葉県夷隅郡大多喜町大多喜

形状

平山城(丘城・崖城)

現状・遺構等

現状:総南博物館、大多喜高校他
遺構等:曲輪、土塁、井戸(大多喜高校グラウンド隅)、移築現存薬医門(大多喜高校内にある)、模擬三階櫓(天守)、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2006/01/03

歴史等

小田原の役の後、 天正18年(1590)、関東に入国した家康は、安房の里見氏の押えのために、 徳川四天王の一人である本多忠勝に大多喜根古屋城10万石を与えた。忠勝は根古屋城の防備が近代戦にそわないと考え、その西南1. 5キロの地を選定し、大多喜城を築いた。
関ヶ原合戦後、忠勝は桑名へ転封となり、 次男忠朝が大多喜5万石の藩主となった。忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥の政朝があとを継いだが、元和3年(1617)播磨龍野へ移った。
ついで、阿部、青山、稲垣と代ったが、元禄16年(1703)相模甘縄より松平(大河内)正久が2万石で入封してからは、松平(大河内) 氏が9代続き、最後の城主松平正質(まさただ)の代明治維新を迎えた。
『「現地案内板」、「大多喜根古屋城案内板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』

現況・登城記・感想等

かの徳川四天王の筆頭とも云える本多平八郎忠勝の城ときては、以前から何としても登城したいと思っていた。
城そのものは、天保時代の天守絵図を基に復元されたとはしているが、天守台の石垣ひとつ取ってみても違うようであるし、 発掘調査でもその建物跡は発見されなかったようであるし、一種の模擬天守でしょう。あまり感激するようなものではない。
しかし、天守前の夷隅川側の崖は見事なものであるし、空堀もかなりのものである。また、今でも満々と水を湛えているという周囲10m、 深さ20mの大井戸もすごい。
そして1つ大発見?大井戸の方へ降りて行く途中に、城入口にあった水道跡のような穴を発見。ひょっとすると、全国の城によくある 「秘密の抜け道」?そんなわけないか!!
(2006/01/03登城して)

ギャラリー

縄張図(博物館展示より)
大多喜城は、初代城主本多忠勝によって築かれ、西から東に張り出す丘陵を利用し、本丸・二の丸・ 三の丸を配置し、西は尾根を切る空堀、南は夷隅川に落ち込む急崖、東と北は水堀となっていた。この城絵図は、明治元年(1868)、 最後の城主松平正質の時に作図されたものである。

大多喜城の遠景

本丸にわずかに残る土塁

空堀
 

天守閣からの眺望(中央右よりに見えるのが夷隅川)

二の丸跡
二の丸跡は大多喜高校となている。その向こうが三の丸跡で、市街地となっている。

大井戸
二の丸跡である現大多喜高校グラウンド隅に残る周囲10m、 深さ20mもある大井戸で今でも満々と水を湛えているという。

秘密の抜け穴?
本丸から、二の丸跡の井戸のところへ行く時に、こんな穴を見付けたけど?

 大多喜高校内にある薬医門(移築復元)

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コメント

麗羅(2011/06/17)

すごいですね(^_^)v

里菜(2011/07/05)

著作権についてききたいのですが
このサイトの写真を使ってもいいんですか?

タクジロー(2011/07/05)

里菜さま
ご訪問ありがとうございます。
また、ご丁寧に使用のご挨拶をありがとうございます。
どうぞ、ご自由にお使いください。

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