安房 滝田城(南房総市)

二ノ郭下の塁段になった腰曲輪

南総里見八犬伝発祥の地とされる城

別名

根古屋城

所在地

南房総市上滝田、下滝田
【登城口までの行き方】
登城口は上滝田と下滝田からの2箇所ある。上滝田からが大手道のようで、こちらがお薦めだ。
(上滝田から)
県道88号線にあるJA安房上滝田出張所の脇道(北東側)へ入り、200m弱進むと、左側に駐車場(4台ほど駐車可) があり滝田城遊歩道案内図が立っている。ここから馬場跡経由で登城。
(下滝田から)
JA安房上滝田出張所から県道88号線を400mほど南下すると右側に城址案内の看板が見える。そこを右折すると。 そこからは城址案内板に沿って行けば、下滝田側からの登城口駐車場(10台ほど駐車可)へ出る。 駐車場に滝田城遊歩道案内図と説明板が立っている。

形状

山城(標高140m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、虎口、竪堀、堀切、櫓台、物見台、土橋、標柱、説明板、遺構案内板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/06/14

歴史等

滝田城は、戦国時代、安房最大の幹線道路平久里道を押え、管理する拠点にあった。
築城年代は明らかではないが、安房志によると、城代を里見5代義豊の妹を妻とした一色九郎としている。
一色氏は、もと足利氏に仕えていた武蔵幸手一色氏の一族で、里見氏が安房の主になった際、従ったものと思われる。
一色九郎の時、里見氏一族内での主導権争いを契機として「※天文の内乱 (天文2年・1533)」が勃発し、家臣、国人層も巻き込み安房国内の内乱にまで発展した。
滝田城周辺は、もともと里見義豊の支持勢力が多く、この内乱で義豊側が劣勢に追い込まれた際、 義豊派最後の拠点として徹底抗戦の場になったが、天文2年(1533)9月に落城した。義豊方として戦った一色氏は、 里見実尭の子義尭によって滅ぼされた。
その後、義尭は暫く滝田城に居城したと伝えられ、天文7年(1538)10月、義尭は小弓公方足利義明の要請を受けて、下総国府台に出陣して後北条軍を迎えたが、 この時、義尭は義明を見殺しにして滝田城へ引き上げたようである。
その後、義尭は房総武田氏の内紛に乗じて、武田氏の守る造海城などを攻め取った後、 天文9年(1540)頃、久留里城を武田氏から無血で入手し、 ここに移った。
このとき、息子の義弘を滝田城に残しておいたようであるが、義弘もまもなく、武田氏から佐貫城を攻め取って、 そちらに移ったようである。
尚、滝田城は、南総里見八犬伝では里見義実の居城で、八犬伝発祥の地とされている。

【天文の内乱】
天文2年(1533)、里見義豊が叔父・里見実尭と、里見家を腹心として支えていた正木通綱を稲村城内で殺害した。 この事態に実尭の子・義尭は反撃に転じ、翌年、義豊を「犬掛の合戦」で討ち取って、分家筋だった義尭が家督を継いだ。勝利した義尭は、 本城を滝田城・宮本城方面へと移した。

『「房総里見氏(NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

滝田城への登城道は、上滝田からと下滝田からの二通りある。私は、上滝田側に駐車場があるのを知らず、下滝田から登城したが、 上滝田からが大手のようで、馬場、虎口、段曲輪を見ながら、主郭、櫓台へと登るこちらのコースがお薦めだ。
滝田城は、腰曲輪と堀切主体の非常にシンプルな造りであるが、150mはあろうかと思われる馬場や多くの腰曲輪など、 かなり見応えのある遺構が残っている。
また、登城道も整備され、各所に遺構案内板もあり分かりやすい。(2009/06/14登城して)

ギャラリー

鳥瞰略図

下滝田側からの登城口
滝田城への登城道は、上滝田からと下滝田からの二通りある。私は、上滝田側に駐車場があるのを知らず、 下滝田から登城したが、上滝田からが大手のようで、馬場、虎口、段曲輪を見ながら、主郭、櫓台へと登る上滝田からのコースがお薦めだ。

登城道
㊧登城口を登ると、しばらく細尾根道を進むが、この道も恐らく尾根の両側を少し削ってあるのだろう。途中、 かなり埋まってしまってはいるが、堀切のような跡が一箇所見られた。㊨そして、次に坂道へと出る。
 

展望台
登り始めて10分ほどで、展望台へ出る。ここも何らかの曲輪跡だろう。ここに、「伏姫と八房の像」がある。 何故か、犬の顔が妙に不細工だったが・・・?折角の展望台だが、曇天と靄で眺望は今ひとつ。

堀切
展望台から3~4分ほど進むと、正面に急な階段が見えてくる。その手前に堀切が切られて、 土橋が架かっている。堀切も土橋も、かなり埋ってしまっているが、面影は残っている。
 

主郭の櫓台上
急な階段を登り切ると、櫓台上へ出る。ここに送電線の鉄塔が建ち、滝田城址の標柱と小さな祠が。標柱には 「城代一色九郎の居城」、「南総里見八犬伝発祥の地」などと書かれている。最初、一瞬ここが主郭かと思った。
 

主郭から櫓台を
櫓台上から降りてきて納得。こうして主郭から眺めると、如何にも櫓台らしい形をした土塁だ。

主郭
左奥が櫓台。逆光のため鉄塔がよく写ってない。

⑤-2城門跡
この辺りは強烈な藪で、蛇を踏まないように杖で地面を叩きながら歩いて降りるのがやっとだった(汗)。 地形さえ分からず、案内板がなかったら全く気が付かなかっただろう(苦笑)。

二ノ郭
細長い郭の奥が少し高くなっていて、そこが二ノ郭らしいが、ほぼ中央に土塁(写真奥)があるが、 何のための土塁なんだろう?

二ノ郭下の段曲輪

武者溜
武者溜とは云っても、どれほど広くなく、100人も集まれないかも?

虎口
木々が鬱蒼としており、あまりにも暗くてこんな写真になってしまったが、結構かっこいい虎口で、 右の方へカーブして入城する。虎口手前を左へ曲がって行くと、竪堀へ出るが、強烈な藪で、写真は撮ったが、 全く堀が写らなかったので省略する。

段曲輪
この塁段になった腰曲輪もドクダミの強烈な藪である。この城址は、 他にもドクダミの花園のような藪がいっぱいあった。

登城口
案内板には「登城口」となっているが、要するに虎口である。両側の土塁上には塀が建っていたのだろうか。
 

馬場
上写真の登城口(虎口)から北端の物見台まで150mはあるだろう。㊧は、 馬場中央辺りから登城口方面を撮ったもので、奥の山が城址。㊨は、馬場中央辺りから物見台方面を撮ったもの。
 

物見台
馬場の北端には物見台があり、馬場よりやや高くなっているが、周囲は木々に覆われ眺望はよくない。

上滝田側からの登城口
この写真手前に駐車場がある。ここから奥へ、馬場経由で行く道が大手のようだ。こちら側から、 登城するのをお薦めする。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント