本丸跡の城址碑と関宗祐の墓(右奥)
大宝城と共に南朝方拠点として北朝方と攻防戦、北畠親房が神皇正統記を完成
所在地
茨城県筑西市関館
形状
平城
現状・遺構
現状:宅地、田園、山林等
遺構等:土塁、堀、坑道、関氏墓、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/01/30
歴史等
宝治年間(1247~48)大方五郎政家が初めて関の地頭となり、関氏を称した。政家が大方と称したのは下総大方(大形村)
の地頭を兼ねていたからである。政家より4代を経て宗祐に至る。
関城の南方1km程の所には南北に細長い大宝沼を挟んで大宝城が有る。
南北朝時代の関城主は関宗祐・宗政父子、大宝城主は下妻政泰であった。
彼らは小田城主の小田治久とともに南朝方につき北朝方と戦っていた。
延元3年(北朝暦応元年、1338)9月、陸奥へ赴くべく伊勢を船出した南朝方の北畠親房が、途中、嵐によって常陸に漂着すると下妻政泰、
小田城の小田治久、
関城の関宗祐、伊佐城の伊達行朝、
志築城の益戸国行、駒城の中御門実寛、真壁城の真壁幹重らの常陸における南朝方の中心勢力に迎えら、
親房は 小田城へ入り、
翌年には春日顕国らも来て、常陸は東国における南朝方の重要拠点となった。
一方、幕府(北朝方)は高師冬を派遣し、武蔵・相模の軍勢をもって常陸を攻めた。常陸の南朝方は、一時は高師冬軍を撃退したが、興国2年
(北朝暦応4年、1341)になると、高師冬は、武士達を各個に誘引して南朝方の切り崩しにかかり、
同年11月には小田治久が北朝方に下ってしまった。
その為、親房は関城へ、春日顕国、興良親王は大宝城へとそれぞれ移り、
以後、関城・大宝城が南朝方の拠点となった。
そして、船で互いに連絡を取り合いながら2年あまりに渡り攻防戦を繰り広げた。
この時、親房は神皇正統記を完成させると共に、白河の結城朝親に関城への援軍要請の書状を送るが、
朝親は遂に動かず北朝方についてしまった。そして、ついに力尽き、興国4年(北朝康永2年、1343)城は落城した。
この合戦で関宗祐・宗政や下妻政泰は討死し、北畠親房は脱出して大和吉野へ帰った。
以後、関・大宝城が再び南朝方の拠点とされることはなく、
やがて2城とも廃城となった。
『「日本の名城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「箱守育氏執筆資料」参照』
現況・登城記・感想等
関城跡は、今では、ほとんど関館の町の中に埋もれてしまっているが、
町のあちこちに点在する堀跡や土塁等がわずかに往時を偲ばせてくれる。
また、南北朝時代に高師冬が関城を攻めた時に掘ったという「坑道跡」が残っている。
関城址の石碑の前で地元の箱守育氏という方に出会った。箱守氏は、関城についていろいろ調べているとのことであった。箱守氏によると、
関城跡が、ここ関館に特定されたのは、それほど昔のことではないとのことである。箱守育氏の父と叔父が、畑作業中に偶然「坑道跡」
を見付けて、初めて特定されたのだそうである。尚、「箱守」という姓は、元々は「墓守」であり、
関宗祐の墓を守る為にこの地に居住したことから始まるそうである。
(2008/01/30登城して)
ギャラリー
本丸からの眺め
関城跡は、今では、ほとんど関館の町の中に埋もれてしまっているが、この本丸辺りも含め、
周りより多少高台にあり、往時は大宝沼の上に立地していたのを窺うことが出来る。
本丸跡の関宗祐の墓
この辺りで、箱守育氏に出会った。氏の居宅はこのすぐ後ろにある。箱守氏は、
関城についていろいろ調べているとのことであった。「箱守」という姓は、元々は「墓守」であり、
関宗祐の墓を守る為にこの地に居住したことから始まるそうである。
関城址碑
関館のメイン道路沿いの意外な場所(森の中)に下写真の土塁と堀が
土塁と堀
上写真の森の中にあるこの土塁と堀は、なかなか大規模で結構見応えがある。
坑道跡
北朝方の高師冬が、関城の物見櫓を攻め落す為に鉱夫を募って地下道を掘った跡である。
しかし地盤が軟弱なため落盤中止したと云われる。この坑道跡は大正9年9月、関館の青年2人が偶然発見して世に知られるようになったもので、
日本三坑道の一つである。坑道の形式は、無枠、アーチ型で、高さは2m、幅1mである。(現地説明板より)
この説明にある2青年が、箱守育氏の父と叔父である。高さ2mとあるが、外側から見ると、とてもそんなにあるようには思えなかった。今でも、
調査で入ることもあるようだ。