下野 西明寺城(益子町)

本丸を見上げる

宇都宮氏の臣で紀党と呼ばれ活躍した紀姓益子氏の詰の城

別名

高館城、益子城

所在地

栃木県芳賀郡益子町益子
【アクセス】
西明寺から背後に続く高館山が城跡
西明寺:益子町益子50、電話0285-72-2957(西明寺に駐車場有り)

形状

山城(標高301.8m、比高約200m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、竪堀、井戸跡、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2009/02/19

歴史等

益子氏は征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の末裔と云われ、八郎貞頼が常陸信太郡の郡司となって下向し、その末裔・紀正隆が、平安時代後期の康平年間(1058~65)に、高館山麓に築城(御城山=益子古城)し、初めて益子氏を称して、支配の拠点とし、その後(正隆以降)高館山頂に西明寺城を築いて移ったと云われてきた。
しかし、平成元年以降の益子古城跡といわれる御城山遺跡の調査によると、遺物は全て戦国時代以降のものであり、少なくとも西明寺城と益子古城は同時に機能しており、 益子古城は益子氏の平時の居城、西明寺城は詰の城であったと考えられる。
伝承では、前述のとおりであるが、確実なところは鎌倉時代前期、源頼朝の奥州征伐のとき、宇都宮朝綱(宇都宮城3代城主)の家臣・正重(紀正隆系の者:紀権守)が活躍し、その戦功により益子を与えられて入部し、益子を名乗り築城したと考えられる。
益子を本拠とする紀姓益子氏は、清原姓芳賀氏とともに、鎌倉~南北朝時代に紀清両党と呼ばれ、宇都宮氏の中核を担っていた。
天正17年(1589)3月、15代家宗は宇都宮氏からの自立を企て、後北条氏と内通し、西明寺城で反旗を翻した。この時、宇都宮国綱(宇都宮城22代城主)、芳賀・壬生軍らに総攻撃を加えられ落城し、益子氏は滅亡し、城も廃城となったという。
『「とちぎの古城を歩く」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

西明寺城は、坂東33ヶ所観音霊場第20番札所の西明寺背後から尾根伝いに高館山山頂へと続く山城である。
西明寺は、室町時代の三重塔・楼門と江戸時代中期の鐘楼が藁葺のまま残り、建造物の全てが国或いは県・町の重要文化財の指定を受けている山岳寺院で、もともと寺も城の持仏堂として誕生したものである。
登城には、最高所にある本丸下の駐車場まで車で行くことも出来るが、西明寺から表坂を登って行くコースがお薦めだ。西明寺からでも15分弱で本丸に到達する。
西明寺城は、開発の波が及ばない山中にあり、また県立自然公園として保護されているため、ほぼ完全な状態で遺構も残り、しかも気持ちよく散策できる。
ただ、遺構の残存状態は良いものの、曲輪・土塁・虎口・堀切等々、いずれも造作は小さく、特別な感動はなかった。
ところが、帰ってきてから大きな見落としに気が付いた。登城時に縄張図を見間違えていたようだ。多分、この城址の最大の見所と思われる本丸から北へ延びる尾根へ行っていなかった。この尾根には大堀切や竪堀等々見所が一杯あるようで、再登城の必要がありそうだ。
(2009/02/19登城して)

ギャラリー

西明寺へ
西明寺の駐車場に車を置き、城址へ向かうと、石段へと出る。石段上に楼門と三重塔が見えてくる。
DSC06018

西明寺(左から楼門、三重塔、鐘楼)
DSC06016

西明寺本堂
DSC05960

登城道
西明寺の本堂の裏に廻り、登り始めると、すぐに山城の雰囲気のある道になる。
DSC05964

虎口
途中、このような両側を曲輪で挟まれた大きくカーブする虎口が何箇所かあり、また腰曲輪や堀切跡らしきものも確認できる。
DSC05971

権現平入口
西明寺から5分ほどで権現平へ着く。
DSC05974

権現平
権現平も曲輪跡であったであろう。東側には土塁が確認出来る。ここへは、ハイカーもよく来るようで、展望台やテーブル・椅子が設置されている。
DSC05977

権現平からの眺望と腰曲輪
権現平からの眺望は素晴らしい。西側には腰曲輪が設けられている。
DSC05975

権現平東側の堀切
権現平から、さらに東へ進むとすぐに、かなり埋まってしまい、分かりづらいが堀切へと出る。
DSC05980

権現平の北東の曲輪の切岸
堀切を渡り、さらに北東へ進むと正面に切岸が見えてくる。
DSC05982

権現平の北東の曲輪
この曲輪が、最初に西明寺城が築かれた時の中心の郭であったようだ。かなり広い曲輪で、2段になっている。ここからの眺望も、なかなか良く東屋が建てられている。
DSC05988

手水鉢の石
曲輪の片隅に、手水鉢のような石が転がっていた。また、その傍には、これまた加工された石が転がっていたが、往時のものかな?しかし、そんな大事なものなら、こんな所に放ったらかしにはしないよね!?
DSC05989

権現平と高館山間を通る道路
左土塁上は権現平北東の曲輪、右は本丸のある山。西明寺から権現平経由で登って来ると一旦この道路へ出る。車でも、ここまで来れる。右土塁奥に駐車場がある。
DSC05986

本丸下の井戸跡と本丸を仰ぎ見る(駐車場から撮ったもの)
コの字形に山(山上は曲輪)が池を取り囲んでいるが、池には水がなかった。写真奥上が本丸。
DSC05994

本丸へ登る道
上写真右側に本丸への登城口(左側にもあるが)下に西明寺城跡の説明板と益子城懐古の漢詩の碑が立っている。
DSC05990

登り始めると、早速正面に城塁が現れる。
DSC05995

段曲輪
さらに登って行くと、塁段になった小さな曲輪や虎口に幾つも出会う。
DSC05997

腰曲輪
途中、腰曲輪も確認できる。
DSC05998

本丸土塁
そうこうしていると、本丸土塁が現れる。
DSC06000

本丸虎口
土塁右(南)側に本丸への虎口がある。
DSC06001

本丸
虎口を通り本丸へ入ると右(南)側に櫓台のような高台が見え、大きな石が一杯転がっている。
DSC06002

櫓台
櫓台は高さ2mほどで、広さは2~3m四方ほどの小さなものである。
DSC06004

本丸北側の土塁
本丸北側の土塁はかなり良好に残っている。手前の石は意図的に置かれているようで気になったが?
DSC06006

本丸北側土塁の上
土塁に登ると三角点が。ここが標高301.8mである。
DSC06007

本丸北側虎口
DSC06009

トップページへ このページの先頭へ

コメント

富岡武蔵(2009/02/28)

今晩は、一月二月は北関東自動車道が伸びて佐野まで近くなり栃木に出かけていますが、ほとんど同じ日に回っていますね。西明寺城は本丸の北尾根に四つの堀切を配した尾根と分かれてキャンプ場に伸びる尾根にも曲輪があります。見逃しましたね。
 矢板市の川崎城(塩谷氏)、西方町の西方城(規模が大きく、また長福寺を南に50mほど下り、西山が二条城という別城があります、見ごたえ抜群です)、栃木市の皆川城(皆川氏、高速道から城址が見えます)いずれも10点満点です。

タクジロー(2009/03/02)

武蔵さま
ご無沙汰しております。
縄張図を持って登城したのですが、どうして見間違えたのか、北尾根への曲輪が本郭から延びているように見え、急崖はるか下に曲輪があるように勘違いし、これは無理だと思い、戻って来てしまいました。
老眼が進み、困っています(泣、苦笑)。
皆川城は以前登城しましたが、他の城はまだ行ってません。いつか登城したいものです。
その時には、貴兄のサイトを参考にしたいと思います。貴兄のサイトは非常に詳しく紹介されているので有難いです。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント