唯一の遺構・土塁とその上に県指定史跡・上泉郷蔵
新陰流の始祖、剣聖・上泉伊勢守秀綱の城
所在地
群馬県前橋市上泉町
形状
平城
現状・遺構
現状:市街地(住宅地)
遺構:土塁
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/09/30
歴史等
上泉(かみいずみ)城は、康正元年(1455)に一色義秀により築城されたといわれる。義秀は享徳2年(1453)
名門俵籐太秀郷以来の大胡家を再興し、元通りの勢威に復旧すると、大胡氏に大胡城を譲り、
隣接の地・上泉に築城し、移り住んで上泉氏を名乗った。
上泉城城主は、 義秀-時秀-義綱-信綱(秀綱)-秀胤と続いた。 戦国時代は、山内上杉家に属していたが、川越城の川越夜戦で山内上杉家の勢力がなくなると、
北条氏の勢力が上野国に及び、攻められて開城する。
その後上杉謙信が関東に攻め込み、謙信が関東を支配した。謙信は箕輪城主長野氏をこの地方の押さえとしたので、
秀綱は長野氏の属将となった。
謙信と敵対する武田信玄が箕輪城を攻めた時、
秀綱は箕輪城にあって武田軍と戦い活躍するが、
城は落ち、秀綱は落ち延びて、一時、信玄に仕える。しかしいとまごいをして全国に新陰流を広める旅に出、
柳生をはじめ多くの武芸者に新陰流を伝える。
『サイト「上野国城郭めぐり」、
「戦国時代の城」
他より』
【上泉伊勢守秀綱】
永正5年(1508)に武蔵守義綱(憲綱とも)の二男として、上野大胡城の出城のひとつである上泉城で生まれた。
元服までは源五郎を名乗り、のち秀綱・信綱と称するようになる。鹿島新当流の祖松本備前守について修行をし、
17歳で天真正伝神道流の奥義を授けられた。享禄3年(1530)、秀綱23歳の時、愛洲移香斎が上泉城を訪れ、その非凡な才能を見て取り、
陰流を継ぐに足りる人物と思い極め、翌年移香斎は秀綱に陰流の伝書・秘巻・太刀一腰など全てを伝え、飄然と歴史から姿を消した。そして、
秀綱はさらに様々な刀法を工夫し、新陰流を創出した。
上泉城落城後、長野業正や武田信玄の家臣となるが、永禄6年(1563)新陰流を普及させるため諸国流浪の旅に出る。永禄7年に上洛し、
13代将軍足利義輝に兵法を伝授したほか、永禄8年に柳生宗厳に相伝を伝授。その後も数々の高弟に新陰流を伝え、天正5年(1577)
に没した。
(サイト「戦国の剣聖・
上泉信綱」、「フリー百科事典・
ウィキペディア(Wikipedia)他より」
現況・登城記・感想等
かの剣聖・上泉伊勢守秀綱の城址ということで、遺構等は、ほとんど何も残っていないことを知りながら訪ねた。
上毛電鉄・上泉駅から北へ約1.5km行き、桃木川を渡ると右側に「→上泉郷蔵400メートル」の小さな看板があったが、
次にしばらく云ってから左へ曲がるのであるが、そこには看板が無く探すのに苦労した。
上泉城は、今では3mほどの高さの土塁だけが残り、その上に群馬県指定史跡である「上泉郷蔵」が建っており、その前に「上泉伊勢守の幟」
が立ててあるだけである。せめて、上泉城址の碑だけでもあればなあと思うが・・・
(2006/09/30訪問して)
ギャラリー
唯一残る遺構の土塁とその上に建つ上泉郷蔵
群馬県指定史跡の「上泉郷蔵」と、その前に「上泉伊勢守の幟」が立つ
上泉郷蔵は、天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を貯えることを目的として、寛政8年(1796)
に前橋藩の貯穀令により建てられた。明治4年(1909)まで使われていたという。