上野 後閑城(安中市)

本丸の北側を断ち切る二重堀切の一つ「北第一堀切」

東山道を見下ろす上信の交通の要衝の城、今も遺構がよく残る

所在地

群馬県安中市中後閑字谷津394(後閑小学校の裏山)
後閑小学校:安中市下後閑1999−1、電話027-385-8178

形状

山城

現状・遺構等

現状:公園
遺構等:曲輪、土塁、空堀、櫓(推定復元)、模擬冠木門、説明板、城址名看板

満足度

★★★★

訪城日

2007/10/04

歴史等

後閑城は、嘉吉・文安の頃(15世紀中葉)、信州の依田忠政が築いたと伝えられている。
依田氏の後、新田氏が後閑一帯を領した。永禄3年(1560)、越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵したとき、近隣の高田氏・安中氏らはこれに従ったが、新田信純と小幡信実は従わず、武田氏に仕えた。
信玄は、箕輪城落城後の永禄10年(1567)、真純と改めた新田信純を後閑城へ入れた。天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると、石倉城にいた新田真純の長男信重は、 厩橋城の北条(きたじょう)高広に従ったが、次男重政、三男信久は後北条氏に属し、両後閑と呼ばれた。
天正12年(1584)、北条高広が後北条氏に降ると、北条氏直は両後閑に厩橋城在番を命じた。
天正18年(1590)、小田原の役において両後閑は小田原城に篭城し、後閑城は松井田城の大道寺駿河守政繁の指揮下に入ったが、北条氏の滅亡とともに、廃城となった。
『「現地説明板」、「サイト・埋もれた古城」より』

現況・登城記・感想等

後閑城址は公園となり、非常に綺麗に整備されていて、気持ちよく散策することができる。
最高所の本丸を中心に西郭・北郭・東郭・二の丸・南郭が構えられ、それぞれの郭が階段状の段郭となっている。中でも西郭と北郭は、遠くに望む妙義山等の山並みとのコラボレーションが実に素晴らしい。
本丸と北郭の間は見応えのある二重堀切で断たれている。北郭の外(北)側にも堀切があるので、都合三重堀切と云えるのかも。
また、主郭部と二の丸の間も大堀切で断たれており、二の丸側には櫓台があり、物見櫓が再現されている。
本丸の広さは、南北約60m、幅30mで、百庚申があり、庚申塔の総数は128基あるそうである。
本丸から、真下に西郭群、その向こうに黄色く色づいた田園や妙義山等々の山並みの眺望も素晴らしい。
(2007/10/04登城して)

ギャラリー

後閑城の図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
後閑城縄張図

後閑城址遠景
後閑小学校の裏山が城址。右建物が後閑小学校
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後閑城址全景(西第三郭より) ~クリックにて拡大画面に~
西第三郭跡が広場(駐車場)になっており、城址は芝生公園となり全体がよく分かる。
後閑城全景

西第二郭
左土塁上は西第一郭、右城壁下は西第三郭である。
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本丸への虎口に建つ模擬冠木門
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本丸と百庚申
本丸は一番高い部分にあり、広さは、南北約60m、幅30mで、百庚申が立てられている。百庚申は、寛政9年~12年まで3年余をかけて造られたもので、旧後閑城の家臣が発起人となり、安中藩家臣や近隣の人々に働きかけて本丸跡に建てたもので、庚申塔の総数は128基あるそうである。
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本丸からの眺望
本丸から、真下に西郭群、正面奥に妙義山等々の山並みの眺望は素晴らしい。上の段から、西第一郭・第二郭・第三郭である。
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本丸から南方面を望むと、黄色に色づいた田園とその向こうに見える山並みが素晴らしい。
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北第一堀切
この堀切はなかなか見応えがある。右土塁上が本丸、左土塁は北第二堀切との間の土塁。
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北第二堀切と北郭
上写真土塁から北第二堀切越しの北郭を望む。北郭左側(北側)には北第三堀切がある。
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北郭群(段郭)
段郭になっているのがよく分かる。写真左の竪堀は、北第二堀切から繋がり北郭群下へと落ち込んでいる。段郭と向こうの町並みや山並みとのコラボレーションが素晴らしい。
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東郭
本丸東側真下にある東郭。右土塁上が本丸。左側下は東郭群の段郭になっている。写真奥に二の丸があり、大堀切が断ち切っている。
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本丸・二の丸間の大堀切
二の丸側土塁は櫓台になっており、推定復元物見櫓が建っている。
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復元櫓
上に登って周りをみたが、木々に遮られあまり眺望はよくなかった。
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