城址全景
武田勝頼自害のもととなる裏切り者・小山田信茂の山城
別名
岩殿城
所在地
山梨県大月市振岡町岩殿
形状
山城(標高:636m、比高:250m)
現状・遺構
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪跡(本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪)、空堀(堀切・横堀、竪堀)、井戸、番所跡、烽火台跡、物見台跡、模擬城門、模擬御殿、模擬冠木門など
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/10/14
2012/09/12
歴史等
岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。13世紀になると、円通寺は天台系聖護院末の修道道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。
16世紀に至り大永7年(1527)、郡内領守護小山田信有により築城され、武田、小山田両氏の支配を受け武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。戦国期には武田24将の一人、小山田信茂の居城であった。
天正3年(1575)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田氏は急速に勢力が衰え、天正10年(1582)には、織田軍はついに甲斐にまで迫った。勝頼は、初め新府城に入ったが、未完成の新府城では籠城もままならないとして、城に火を放って逃走を図った。真田昌幸は、岩櫃城に勝頼を招こうとしたが、勝頼は、新参者の真田よりも小山田を信用し、小山田信茂の居城・岩殿城を目指した。しかし、笹子峠で信茂が織田方に寝返ったことがわかった勝頼は、3月11日に天目山で自害し、武田家は滅亡した。
その後、小山田信茂は織田信長に帰参を請うが、主を裏切った不忠者として処刑された。
そして、天正10年(1582)武田、小山田の両氏が滅亡すると、一時、後北条氏が入ったが、甲斐が徳川領になると城番が置かれた。江戸期に入り、徳川支配体制が確立された17世紀の初めには廃城となった。
甲陽軍艦では久能山城・ 岩櫃城と共に武田の三大名城とされる。
『「現地説明板」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」参照』
現況・登城記・感想等
中央線大月駅に近づくと、電車の窓から、如何にも天然の要害といった山が見えてくる。山というよりもでっかい岩と云った方が良いかもしれない。武田勝頼を裏切った小山田信茂の岩殿山城である。
大月駅で降りて20分ほどで登城口に着く。登っていくと間もなく模擬冠木門に出る。さらに登っていくと天守というか御殿を模した資料館があり、ここでちょっと見学。そして再度登り始めると揚城戸跡へ出る。これが凄い。まさに岩を利用した天然の切通しである。
そして揚城戸跡を通って登って行くと、乃木大将碑の立つ南物見台跡近くへ到着。ここからの眺望は素晴らしく、澄み切った晴れの日には見事な富士山の姿が眺められるらしいが、残念ながら、少し靄っていて残念ながら富士山は見えなかった。
そこから奥の方へ降りて行く道があったので円通寺への道かと思い降りていったら、それがとんでもない道で、風雨のためか道を塞ぐ大木が倒れていたり、水が流れる溝になっていたりしていた。本丸の方へ戻ろうかとも迷ったが、 降りてきた道を登り直すのも疲れる上に、ししゃくにも触るし、円通寺跡に出られることを願いながら降りて行ったら結局下まで降りてしまった。本丸の反対側にも非常に多くの遺構等見たいものが沢山あるのに残念なことをした。かといって、再度、 本丸まで戻って行くだけの気力は残っていなかった。富士山も見えなかったし、また次回出直そう。
(2001/10/14登城して)
11年ぶりの登城だ。今回は、会社OBの山登りと温泉愛好会での登城です。
コースは、大月駅⇒浅利公民館前⇒浅利登山口⇒稚児落とし⇒浅利天神・天神山⇒兜岩⇒鎧岩⇒筑坂峠(大手門跡)⇒岩殿山城分岐点⇒岩殿山(三の丸・二の丸・本丸)⇒岩殿山城分岐点⇒岩殿山丸山公園(ふれあいの館)⇒岩殿山登山口⇒大月市民会館です。
かなりの傾斜のある山道を進み「稚児落とし」に到着。「稚児落とし」はスゴイの一言だw(*゚o゚*)w。岩盤の高さは100m以上あるだろう。まさか、本当に、ここから子供を投げ落としたのだろうか。ここでは転落死亡事故も起こっているというが、確かに、落ちたら絶対に助からないだろう( ̄ー ̄;。
次に向かったのが、天神山経由で「兜岩」だ。この登り道がキツイ。さらには、岩から下りる「くさり場」が、またまた・・・・w(*゚o゚*)w。 ほとんど垂直の岩を、鎖に命を預けて20mほど下りて行くのだ。下り切ったところからは、岩盤を削って造られた幅20cmほどの道を行くのだ。ここは、道の上も崖、下も崖です(;´▽`A``。
そして、筑坂峠に到着。筑坂峠は堀切状の地形で、そこに空堀も掘られているが、往時の大手口だそうで、ここから岩殿山へ向かう道が大手道である。
大手道を進み、岩殿山城分岐点、そして急な階段を登って、揚城戸跡・番所跡経由で乃木大将の碑が立つ南物見台付近へ到着。さらには、馬場跡を通り、三の丸・二の丸・本丸へと進む。この辺りは、前回見落としたところだ。本丸の奥は、2本の堀切で断ち切られている。
最後に、馬場の南側の15mほど下がった窪みのところにある2つの井戸を見て下山。こんな岩の塊の山の上に湧き水が出るというのはスゴイの一言だw(*゚o゚*)w。一つが「亀ヶ池」と呼ばれ飲料用で、もう一方は「馬洗い池」と呼ばれる、文字通り馬を洗っていたものだそうだ。
こうして見ると、岩殿山城は、山上部分に築かれた典型的な連郭式山城であるのが分かる。
特別多くの、また明瞭な遺構が残っているわけではないが、結構見応えのある城址です。そして、兎に角、「岩・岩・岩・・・」の山城です。
(2012/09/12登城して)
ギャラリー
大月駅プラットフォームから岩殿城を
桂川に架かる橋の手前から岩殿山城を望む
大月駅から東へ廻ってから北へ進むと桂川(深い峡谷になっている)に架かる橋へ出る。その向こうには、岩の塊の岩殿山が聳えている。まさに、天然の要害だ。
冠木門
橋を渡って、山の東側へ向かい、登山口から少し登って行くと模擬冠木門が現れ、その脇に岩殿山城の説明板が立っている。尚、橋を渡った左手(西側)に登山客用駐車場がある。
模擬城門
さらに、登って行くと、今度は、なかなか雰囲気のある模擬城門が現れる。丸山公園(ふれあいの館)への入口である。
ふれあいの館(資料館)
模擬城門から入って行くと、左前方に天守閣?(御殿?)を模した建物が現れる。内部は無料の資料館などになり、大月市出身の落語家・三遊亭小遊三によるナビゲーションビデオなども見られる。資料館は土壇の上に建っているが、この土壇がもともとあったものなのか、資料館を建てる際に盛ったものなのかは分からない。この辺りに、城主の平時の館があっても不思議ではないが、どうなんでしょうね?
櫓台??
ふれあいの館の右に目をやると、高さ6mほどの櫓台のようなのがあるが、これまた、どうなんでしょうねえ?
鏡岩
ふれあいの館から、かなりの急坂を登って行くと、右手前方に強烈な岩壁「鏡岩」が見えてくる。この上が、岩殿山城だ。当然、ここから登るのは無理でしょう(*^_^*)。
岩殿山城・稚児落とし分岐点
さらに登って行くと、岩殿山山頂(岩殿山城)と兜岩経由稚児落とし方面への分岐点へ出る。岩殿山城への道は、ここから、さらに急な石段の道になる。
揚城戸跡
急な石段を登って行くと、揚城戸跡へ出る。いよいよ、ここから城内であるが、巨岩を利用した天然の切通しで、ここから敵が城内に進入するのは難しいだろう。
番所跡
揚城戸を抜けると番所跡がある。雨露を避けるための建物があり、揚城戸の番兵の詰所があったそうだが、スペースは非常に狭く、ほんの小さな建物だっただろう。
振り返って番所跡と揚城戸を見下ろす
番所跡からほんの少し登ると城内であるが、振り返って番所跡と揚城戸を見下ろすと、その堅固な構えが分かる。
西物見台方面
城内へ登ると、左方面に西物見台があったそうだ。説明板によると「この頂部西端には礫岩の大露頭がみられた。史実として記録はないが、西物見台とも、円通寺で研修する修験者の修行場ともいわれた岩であった。しかし、長い年月の間に風化・浸食が進み、崩落の危険性が増大したため、頂部から高さ約8m下方まで破砕撤去工事を施工し、平成11年3月完了した。」とあった。そのため、写真の先端部には柵があったので、入って行くのは諦めた。
馬屋跡と帯曲輪
城内へ向かって行くと、「馬屋」という標柱が立っているが、何処に、そんなスペースがあるのか分からないが・・・?左手の道は帯曲輪で、右へ登って行くと乃木希典の碑が立つところへ出る。
乃木希典の碑(南物見台)
この辺りは周囲より少し高くなっており、三の丸かと思っていたが、案内板の絵図によると「兵舎」や「南物見台」があった場所だそうだ。
南物見台跡からの眺望
さすがに、この南物見台からの眺望は素晴らしい。澄み切った晴れの日には見事な富士山の姿を眺めることができるが、残念ながら少し靄っていて残念ながら見えなかった。
馬場跡
兵舎跡の下が馬場跡となっているが・・・? 他にも、多くの険しい山城で、山上に馬場跡というのがあるが、それらの山城も含めて、本当に山の上に馬を連れてきていたのだろうか? 手前にあった「馬小屋」と共にどうも疑問だ・・・。
井戸跡
馬場の南側の15mほど下がった窪みのところ2つの井戸跡がある。こんな岩の塊の山の上に湧き水が出るというのはスゴイの一言だw(*゚o゚*)w。写真右が「亀ヶ池」と呼ばれ飲料用で、写真左は「馬洗い池」と呼ばれる、文字通り馬を洗っていたものだそうだが・・・?
蔵屋敷跡
馬場跡を進んでいくと、蔵屋敷跡へ出る。武器や弾薬、食糧、燃料のほか、生活用品の保管がされていた。
二の丸と三の丸
案内板の絵図によると、蔵屋敷の先が二の丸と三の丸で、道の左側が二の丸で、右側が三の丸となっているが・・・。ここは、全体が二の丸なのでは?
本丸と烽火台
さらに進んで行くと、最高所にある本丸へ出るが、本丸はパラボラアンテナ基地となっていてガックリ。その西側には高さ1.5mほどの塚があるが、烽火台跡らしい。
1本目の堀切
本丸の奥は、二重堀切で断ち切っている。この1本目の堀切には土橋が設けられている。
堀切は、当然、山裾へ竪堀となって落ちていっている。
2本目の堀切
実際には、比較的明瞭な堀切だが、あまりの藪のため写真では分かり辛いですね(/。ヽ)。
【稚児落とし方面】
岩殿山城の西側に、「稚児落とし」と呼ばれる断崖絶壁がある。今回(2012/09/12)は、浅利登山口から、稚児落とし、天神山、兜岩経由で岩殿山城へ登った。
大月駅⇒浅利公民館前⇒浅利登山口⇒稚児落とし⇒浅利天神・天神山⇒兜岩⇒鎧岩⇒筑坂峠(大手門跡)⇒岩殿山城分岐点⇒岩殿山(三の丸・二の丸・本丸)⇒岩殿山城分岐点⇒岩殿山丸山公園(ふれあいの館)⇒岩殿山登山口⇒大月市民会館です。
下図を大月駅から赤の破線を時計回りに廻ったわけだが、結構、厳しい登山になりました。
尚、この地図は、大月駅前の観光案内書で手に入れたものです。
大月駅の西の方にある陸橋から岩殿山城(右)と天神山(左)を
まずは、大月駅から西へ廻り、中央線上に架けられた陸橋を渡る。
浅利登山口への吊り橋
陸橋を渡り、車道を30分強ほど道なりに歩いて行くと、右手に浅利登山口へ向かう吊り橋(見落としやすい)がある。この橋は、かなりの老朽化のため、「2人以内で、静かに渡るように」との注意書きが・・・w(*゚o゚*)w。
登山道
登山道へ入ると、いきなり急傾斜の道が続きます。
稚児落とし
急傾斜道を登っていくと一旦尾根道へと出るが、その後、また急傾斜道になる。今回は、82歳のお年寄りが参加していたので、歩行速度は実に遅く、この稚児落としまで、登山口から50分もかかってしまった。普通なら、30分強といったところでしょうか。それにしても、この稚児落としはスゴイ!! 岩盤の高さは100m以上あるだろう。まさか、本当に、ここから子供を投げ落としたのだろうか。ここでは転落死亡事故も起こっているというが、確かに、落ちたら絶対に助からないだろう( ̄ー ̄;。私は、決して高所恐怖症ではないが、谷底まで見ることは出来なかった( ̄ー ̄;。
稚児落としを反対側の岩の上から
先程は、正面上に見える巨岩の上に立っていたのです( ̄ー ̄;。 ここまでのペースで歩いて行くと、肝心の岩殿山城へ登城できなくなるので、ここから先は、リーダーに頼んで、一人で行かせてもらった。
天神山への登山道
皆さんと分かれてから、しばらくは緩い上り下りの道を駆け足で向かったが、天神山への坂道は、またまた急傾斜の道に・・・。
天神山から兜岩(左)と岩殿山城(右)を
稚児落としから天神山まで20分ほどかかりました。ここから、左に見える兜岩経由で右奥に見える岩殿山城へ向かうのです。これまた、強烈な岩肌です・・・( ̄ー ̄;。
兜岩の上から岩殿山城を
最初の駆け足が悪かったのか、この兜岩への登り坂は本当にキツカッタ(;´▽`A``。そのため、天神山からこの兜岩まで12分ほど掛かってしまった。フーッ! いよいよ岩殿山城が目の前だ。尤も、ここから、一旦下って、再度、登ることになるので果たして・・・・。
兜岩のくさり場
兜岩からの下りは、強烈な岩崖だ。ほぼ垂直に近いような部分もある。この崖を鎖とロープを頼りに20mほど下りて行くのだ。
一難去ってまた一難w(*゚o゚*)w
急崖を何とか降り切ると、こんどは幅20cmほどの細い道? 上も崖、下も崖です(;´▽`A``。高所恐怖症の人には無理かも。
筑坂峠(大手門跡)
兜岩から20分弱で筑坂峠に到着。筑坂峠は堀切状の地形で、そこに空堀も掘られており、大手口だそうで、往時は大手門があったというが、本当だろうか? 山麓から、ここまで登って来る道は??
あまりにも疲れていたので、ここで一休みしようかと思ったら「この辺には熊出没、注意必要」の看板が・・・w(*゚o゚*)w。こんな山に熊が出るとは思っていなかったので、今日に限って「熊ベル」を持参しなかった。慌てて、大手道を岩殿山城へと・・・( ̄ー ̄;。
大手道
大手道は、昔ながらの登城道なのでしょう。細い道を15分ほど登って行くと、岩殿城への分岐点へ出る。