甲斐 若神子城(北杜市)

復元された狼煙台と遠くに富士山

新羅三郎義光による築城伝説の城、信玄時代は信州攻略の中継基点

所在地

山梨県北杜市須玉町若神子
【大城への行き方】
中央高速須玉ICから国道141号を北進し、西川橋西詰信号を西(左)へ曲がり、くねくね道の県道28号を約700m登り、 ふるさと公園入り口を左折。駐車場有り(8台)。

形状

平山城

現状・遺構等

現状:須玉町ふるさと公園、山林等(市指定史跡)
遺構等:曲輪、土塁、空堀、宿借石(大手門跡?)、復元狼煙台、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/11/03

歴史等

若神子(わかみこ)城は「古城」または「大城」と呼ばれる遺構を中心に、東に北城(正覚寺裏山)、 湯沢の西に南城の3ヶ所からなる山城の総称である。
連郭式山城で、新羅三郎義光によって築かれたという伝承があり、正覚寺の寺記には義光の子義清が若神子に住したと書かれている。
この伝承が事実かどうかは定かではないが、武田信玄の時代には信州攻略の重要な中継基点としてたびたび若神子城で度々陣立てを行った。また、 信濃佐久口へ通じる佐久往還、諏訪口へ通じる棒道がここを起点として走り、加えて狼煙通信網の拠点として重要な役割を果たしてきた。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、いわゆる「天正壬午の戦い」において、北条氏直は信濃側から甲斐へ攻め込み若神子城を拠点として、 さきに入国し新府城に拠った徳川家康と一戦を交えようとしたが、 家康に服従した旧武田軍の奇襲で後北条軍は大敗して信濃へ敗走した。
『「現地説明板」、「日本城郭大系8(新人物往来社刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

若神子城は「大城(古城)」「北城」「南城」の三つの城域があるが、今回訪れたのは「大城(古城)」だけである。
大城(古城)は、今は「須玉町ふるさと公園」となり、整備(破壊?)されている。
公園は須玉町を見下ろす小高い山の上にあり、遠くには富士山をも見渡せる素晴らしい立地にある。
公園化による改変はかなり激しく、わずかに「薬研堀」が残されている他に、地面に凹凸が何箇所かあるが、 それが往時の土塁や空堀などの遺構なのか、公園化によるものかが判別がつきにくい。
園内の「ふるさと公園」についての説明板によると、公園化の事業費に1億8千万円近く掛かっているそうだが、 もう少し何とかならなかったものだろうか?ここに来る前に、谷戸城の素晴らしい発掘復元整備を見てきたばかりだったので、 余計に疑問を感じる。
(2009/11/03訪れて)

ギャラリー

公園案内図

腰曲輪?それとも空堀?
公園に入るとすぐ、左側に腰曲輪のような凹みが奥の方へと続いているが、これって腰曲輪なのだろうか、 空堀跡なのだろうか?それとも公園化による単なる凸凹なのだろうか?

薬研堀
天正壬午の乱の際、北条方が構築したとされる薬研堀の空掘。薬研堀は幅1m、深さ1.2m、 長さ10mで発見され、規模と配置から構築途中の段階で放置されたものであると推定されている。しかし、 これって薬研堀というよりも畝堀のような感じだが・・・?

つどいの広場
公園化により遺構は、ほとんど破壊された。ただ、眺望は素晴らしく、富士山もよく見える。復元狼煙台は、 写真奥の中央やや右に建てられている。

復元された狼煙台
烽火台が復元され、北方面(獅子吼城方面) に烽火を上げていた様子を窺い知ることができる。

曲輪と空堀と土橋??
広場から右(西)へ向かうと平坦地(多分曲輪跡)があり、 その手前に浅いが空堀跡のような凹みと土橋のような地形が確認されたが・・・?

空堀?
上写真の浅い空堀様地形を横から撮影。やはり空堀跡のようだ。

本丸土塁
公園入口の案内図によると、どうやら本丸土塁跡らしいが・・・?

宿借石
ふるさと公園説明板には大手門を思い起こさせる巨石となっていたが・・・?確かに岩には加工跡が見られるし、 自然石を加工して門を付けていたのだろうか?

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