越後 坂戸城(南魚沼市)

城主館(通称御館)正面の石垣

上杉謙信の姉仙桃院の嫁ぎ先、直江兼続生誕の地

所在地

新潟県南魚沼市坂戸
【アクセス】
ホテル坂戸城の北東約300mに登城口と駐車場有り
ホテル坂戸城:南魚沼市坂戸292-4、電話025-773-3333

形状

山城(標高634m、比高約450m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、空堀、竪堀、居館跡、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2009/05/25

歴史等

上田荘は越後から三国峠を越えて関東へ通ずる街道上にあり、古代から軍事上重要な根拠地であった。
坂戸城は、上田荘が一望出来る要衝の地であり、南北朝の動乱時代、南朝方の新田一族によって築かれたと伝えられる。
室町時代初期、上杉氏が守護になると、家臣の守護代長尾氏(上田長尾氏)が坂戸城を本拠地にして勢力を伸ばし上田荘(南魚沼地方)を治めるようになった。
16世紀初頭、越後国内が戦国の動乱期に入り、坂戸城は長尾景房により本格的な築城が始まった。
天文17年(1548)、長尾景虎(後の上杉謙信)が晴景に代って春日山城主になると、翌18年(1549)長尾政景は景虎(謙信)に背いたが、天文20年(1550)景虎に無条件降伏した。その後は、政景は景虎(謙信)の家臣としてよく働いた。
永禄7年(1564)、政景と宇佐美定満が野尻池で舟遊び中、酒に酔って溺死するという事件が起こった。謙信は、このことを聞いて悲しみにくれたという。しかし、謙信が政景の存在が危険であると考え、宇佐美に討たせたのではないかという説がある。
この事件の後、政景の子景勝は謙信の養子になった。
天正6年(1578)、謙信が急逝し、「御館の乱(1578~80)」で景勝が勝利し越後国主になると、坂戸城は近隣武将の番城とされ、領国経営の要所となった。
慶長3年(1598)景勝が会津若松城に移封になると、 春日山城には越前から堀秀治が入った。秀治は又従弟の堀直竒を坂戸城主2万石に命じた。
この時、直竒により城は大修築され、石垣などが築かれたが、慶長15年(1610)直竒が信濃飯山城4万石に移封となり、坂戸城は廃城となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

六日町の東の方を眺めると、坂戸城のある坂戸山の偉容が見える。
坂戸城への登城口駐車場に着いたのが、夕方6:20で、比高450mもある山上の実城へは登城不可。山麓にある居館部だけでも見ようと小走りに廻った。
まず、広い家臣屋敷跡があり、その奥に城主館跡(通称御館)がある。
城主館跡は東西約80m、南北約120mあるそうで、周囲を土塁が囲み、正面土塁には高さ約2m、長さ約50mの石垣が築かれている。その虎口手前には城址碑がたち、その40mほど北の石垣先端部前には「上杉景勝 直江兼続生誕の地」の石碑がたっている。
これだけ、見ただけでもなかなかのものだが、山上の曲輪群にも石垣等の遺構が残っているらしい。次回の登城が楽しみだ!
(2009/05/25訪れて)

【余談
登城口駐車場には、ハイキングコースの案内板や坂戸城の説明板が3つも設置されている。それによると、一つは上り80分、下り60分とあり、もう一つの案内板には60分とある。一体どっちなんだ?
下山してきた二人の方(何度も登っているようだった)に尋ねると、「いつも山登りをしている人なら30~40分くらい。60分というのは、あまり山へ上りなれていない女性の時間だろう。まあ、30分は、ちょっときついが、40分あれば登れるだろう。」とのことであった。
これを聞いて、「まあ、比高450mということを考えると、50分弱くらいかな?」と踏んだ。
また、「熊、注意」の看板を見たので、念の為に「熊は大丈夫ですか?」と尋ねたら、「まあ、どこの山でも熊はいるし、出るときは出るし。」と気にもしていなかったが、この人達は熊に出会ったことがあるんだろうか?
尤も、それ以上は尋ねなかったが・・・。
(2009/05/25坂戸山麓登山口にて)

ギャラリー

坂戸山ハイキングコース案内図 ~画面をクリックにて拡大~
この案内図ではどのコースも80分以上となっています。
坂戸城ハイキング案内図

城址遠景
坂戸城址のある坂戸山は六日町の東に聳えています。関越自動車道からも目立つこの山は、まさに偉容です。
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登城口駐車場
登山口にある駐車場には、ハイキングコースの案内板や坂戸城の説明板が3つも設置されている。それによると、一つは上り80分、下り60分とあり、もう一つの案内板には60分とある。一体どっちなんだ?尚、12~3台ほど駐車可能。
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家臣屋敷跡
駐車場から城主館方面へ行くと、広い家臣屋敷跡があります。堀直竒が入城したときに、ここに家臣を集住させたとのことです。低い段差の塁段になっています。
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城主館虎口とその前に立つ石碑
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虎口の門柱礎石
虎口には門柱の礎石が残っています。
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城主館(通称御館)
城主館跡は東西約80m、南北約120mあるそうで、周囲を土塁が囲んでいるそうですが、薄暗くなってきたので、これ以上入って行くのは止めました(/。ヽ)。
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城主館正面の石垣
高さ約2m、長さ約50mあります。この石垣も堀直竒が入城したときに築いたものです。写真のすぐ右側(石垣前方一本杉の前)に上杉景勝、直江兼続生誕の地の石碑が立っています。
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上杉景勝・直江兼続生誕の地の石碑
二人とも上田庄で生まれたには違いないが、この場所で生まれたわけではなく、景勝は上田庄樺野沢で、兼続は坂戸城下で生まれたようです。
DSC09240

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