信濃 松岡城(高森町)

松岡城二の丸北端から二の堀と土橋を望む

信濃の名門小笠原氏に属した松岡氏の城、5条の堀切が良好に残る

所在地

長野県下伊那郡高森町下市田
【アクセス】
松岡城の西惣構跡に松源寺があり駐車場がある。
松源寺:高森町下市田4389、0265-35-3302

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 公園、畑地、果樹園、松源寺
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀(堀切、横堀、竪堀)、石碑、説明板、遺構案内板

満足度

★★★★

訪城日

2013/10/26

歴史等

平安時代、前九年の役(1056-62)で敗れた陸奥の安倍貞任の次男仙千代が市田郷牛牧村に逃れてきて住み着きその後、地頭となり松岡姓を称し、上市田の松岡古城を築いた。
南北朝期に入り、新たにこの地に城を築き、以後松岡氏の本拠とし、信濃国守護小笠原氏に従った。
天文23年(1554)伊那に侵攻した武田信玄は、自ら大軍を率いて伊那に入り、抵抗の素振りを見せた鈴岡城の小笠原氏、神峰城の知久氏を攻め落とした。その状況を見た松岡氏は抵抗は無理と考え、武田氏の軍門に降り、自領の安堵を図った。
天正10年(1582)織田信長軍が伊那へ侵入し、飯田城大島城を陥落させ、その後、高遠城まで攻め落としてしまった。伊那郡は織田氏の家臣毛利秀頼の治めるところとなり、この時の松岡城主頼貞は信長に帰順し本領を安堵された。
ところが、本能寺の変で信長が急死し、伊那郡は徳川家康の勢力下に入ったが、信濃の豪族は徳川家康と豊臣秀吉のどちらに就くか去就を決めかねていた。
そうした天正13年(1585)、深志の小笠原貞慶は徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏を高遠城に攻めたが、逆に貞慶は大敗を喫して深志に退いた。
この時、松岡城主松岡貞利は徳川家康に誓詞を入れ服従を約していながら、貞慶に味方して、高遠城攻撃に向かったが、形勢不利と見て途中で引き返した。ところが、それを家臣座光寺次郎右衛門に密告され、天正16年(1588)、松岡貞利は改易を命ぜられ、所領を没収され、約500年続いた松岡氏の支配は終わりを遂げた。
『松岡城址愛護会パンフレット他より』

現況・登城記・感想等

松岡城は、南東へ向かって半島状に突き出した河岸段丘の先端部に築かれている。先端部の本丸から二の丸、三の丸、東惣構、西惣構と配置され、各曲輪間に一の堀~五の堀の堀切を設け、これが真っ直ぐに連なる典型的な連郭式平山城である。
曲輪は、西惣構には松岡氏の菩提寺「松源寺」が建ち、本丸が城址公園となっている他は大部分が畑地や果樹園(柿畑)になっているが、本丸~西惣構の全曲輪がはっきりと分かる。
堀切の大部分は実に良好に残る上、綺麗に整備されていて分かりやすい。
また、本丸から望む明石山脈の眺望も素晴らしいです。
(2013/10/26登城して)

ギャラリー

松岡城縄張図(現地松源寺駐車場設置の松岡城址愛護会パンフレットより)
松岡城縄張図

大手道
車で松源寺(西惣構跡)を目指して行くと、道路右側に松源寺、道路左側に「五の堀」の案内板が見えて来ます。この道が大手道だったようで、本丸へは、この道の両側に曲輪跡や堀切を見ながら真っ直ぐ進んで行きます。駐車場は、ここから50mほど進んだ左手にあります。尚、当写真手前は宅地化されて、遺構は何も残っていないが、松岡城址愛護会のパンフレットの縄張図によると、三日月堀があったとなっていることから考えると、馬出しがあったと思われます。
01大手口

五の堀(北側)
五の堀は、多少埋まっているようですが、深さ5m、幅10m以上あるでしょう。
03五の堀

五の堀(南側)
道路反対側は生垣(2段上写真参照)があるが、その上から見ると、見事な堀切が残っています。ここは、中央に畝があり、二重堀切になっています。
04五の堀

四の堀①(北側)
四の堀の北側の半分はかなり埋まってしまっている。一部、石垣があるが、後世のものでしょうか。
06四の堀

四の堀②(北側)
四の堀は、三の丸北側の横堀へと続き、三の丸の北側(写真左側)の防御をしています。
07四の堀

四の堀(南側)
四の堀の南側部分は、埋め立てられてしまっているのでしょうか、畑地になってしまっているが、見た目は堀跡のような感じです。
08四の堀跡

西惣構には松源寺が
西惣構跡には、今も松岡氏の菩提寺であった松源寺が建っています。
11松源寺

東惣構を
松源寺の山門前から撮ったものです。東惣構は、、今では全面畑になっています。
13東惣構

三の堀が
畑の中の道を進んで行くと、三の堀の土橋前へ出る。 
15三の堀

三の堀(北側)
三の堀(北側)は2段になっており、東惣構側が腰曲輪のようになっているが・・・・?
16三の堀

三の堀(北側)
三の堀(北側)の三の丸側の一段深い堀は、傾斜しながら、三の丸の北側側面へ延びている。
17三の堀

三の堀(南側)
三の堀(南側)には段差はないが、三の丸側の深い部分が埋められているのか、全体が浅くなっており、今は柿畑になっている。
18三の堀

二の堀
左(北側)は柿畑、右(南側)は野っ原の三の丸跡中央を進むと二の堀に架かる土橋へ出る。その向こうには二の丸跡、さらに向こうには本丸虎口の土塁が見えて来ます。
21二の堀

二の堀(北側)
この二の堀(北側)が、最も往時の姿に近いのでは? 幅は7~8mほどですが、深くて、かっこいいです。深い所では、5~6mほどあるのではと思います。 
22二の堀

二の堀(南側)
23二の堀

二の丸から二の堀に架かる土橋を振り返って見る
二の堀を渡ってから、振り返って見た土橋ですが、両側の空堀が深くて、かっこいいです。
21二の堀土橋

二の堀北端と三の丸北面を
二の丸の北端へ来て、城の北面を見下ろすと、二の堀と三の丸北面の横堀とが合流して山裾へ落ちていっているのが見え、防御を段丘の急崖だけに頼った城でないのが分かります。
26急崖

一の堀と本丸虎口
本丸手前にも堀切が設けられ、土橋が架かっています。本丸手前(西側)には、土塁が設けられています。
28一の堀

一の堀(北側)
一の堀は、かなり埋まってしまい浅いです。
29一の堀

一の堀(南側)
一の堀は、土橋の南側もかなり埋まってしまい浅くなっています。尚、この堀底を南へ向かって行くと、本丸南下の帯曲輪へと降りて行くことができる。
31一の堀

一の堀北端部
一の堀(北側)は、本丸北側へ廻りこむように延び、竪堀となって山裾へ落ちて行っているようです。

30一の堀

本丸虎口から本丸を
本丸手前の土橋を渡り、本丸虎口から入って行きます、本丸虎口には、僅かですが、石積みが確認できます。
41本丸

本丸と城址碑
本丸の先端に城址碑が立っていますが、虎口からここまで100m近くあり、幅も80mほどはあるでしょう。本当に広い本丸です。尤も、この城は、他の4つ曲輪も、本丸並みか、或いはそれ以上の広さです。
42本丸石碑

本丸からの眺望
本丸から望む、明石山脈をはじめとする山並みやや高森町などの眺望は本当に素晴らしいです。
45眺望1

46眺望2

本丸下の帯曲輪
本丸南下から東下直下にかけては帯曲輪が設けられているが、この帯曲輪から山麓虎口にかけての南斜面には、大小数多くの帯曲輪が設けられているとのことです。
55腰曲輪

本丸東下の堀切
本丸の東下と南東下には堀切も確認できる。こうしてみると、本丸周囲にも多くの防御体制が備えられていたのがよく分かる。
57堀切

双石虎口
本丸南下の帯曲輪に「双石虎口(ふついしこぐち)」の説明板があった。説明板によると、「この虎口は、山麓からきた道が曲輪へ通じるための重要な関門である。両側を大石(写真右下の石らしい)と土塁によって固められ、本丸の城壁と切り立った崖とによって守られたこの虎口は松岡城の中でも特徴ある遺構の一つである。」となっているが、私には何が特徴的なのか、よく分かりません( ̄ー ̄;。
52双石虎口

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