加賀 松任城(白山市、旧松任市)

松任城址公園

加賀一向一揆松任組の本拠、上杉謙信と織田軍の手取川の戦いの舞台となった城

読み方

まつとうじょう

別名

鏑木城(かぶらぎじょう)
他に「一名蕪城」という別称もあるようですが、何と読むのでしょうか?「蕪城」は「かぶらぎ」とも読むが、松任には「蕪城(ぶじょう)」という地名があるので、おそらく「ぶじょう」と読むのでしょうが、「一名」は全く分かりません(;´▽`A`` 誰か教えて下さい。

所在地

石川県白山市(松任市)古城町42番地
【アクセス】
JR北陸本線「松任駅」の南側一帯が城跡で、駅から南約100mに「松任城址公園」があるが、この公園が本丸跡。駐車場はないので、公園の西側の道路が交通量も少なく、比較的道路も広いので、そこに停めて見学した。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 松任城址公園(旧おかりや公園)ほか
【遺構等】 櫓台、内堀跡(埋め立てられている)、模擬石垣、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/05/18

歴史等

松任城の築城に関しては諸説あるようだが、城址公園に立つ年表が刻まれた石碑には、平安時代末期の安元2年(1176)に、加賀介近藤師高(後白河法皇の側近・西光の長男)が館を築いたのが始まりとある。
その後、寿永2年(1183)に松任範光が入城し、後に一向一揆の旗本である「松任組」の本拠地として城砦の形が整えられてきた。
長享2年(1488)以降、鏑木常専が居城とした。常専の子の頼信の時の天正5年(1577)には、上洛を目指す上杉謙信に攻撃を受けたが落城せず、1万貫の知行安堵で和睦に持ち込んだ。これは、松任城の南6kmも水島付近に七尾城を目指す織田(柴田勝家)軍が陣を備えていたからであろう。
ところが、織田軍は謙信が七尾城を攻略したとの知らせを受けるや否や退却をはじめた。しかし、手取川は数日来の雨で氾濫しており、謙信はこの機を逃さず、松任城より水島へ兵を進めた。織田軍は、謙信が率いる上杉軍の猛攻に突き崩されて敗走した。勝家軍は2千の兵が討ち取られ、溺死者は数え切れないという惨状で、謙信は能登から加賀の大半を支配下に置くこととなった。この手取川の戦いは、謙信と信長の最初で最後の戦いとして有名である。
そして、松任城には加賀一向一揆方の武将である若林長門守が配置された。
天正6年(1578)上杉謙信が没し、さらに天正8年(1580)石山本願寺と信長が和睦すると、柴田勝家を総大将とする織田軍は抵抗を続ける加賀一向一揆を攻撃し、松任城を攻め落とし、配下の徳山五兵衛を松任の代官として在城させた。さらに勝家は、同年11月に和議締結の祝いと称して若林長門守や鳥越城主・鈴木出羽守など加賀一向一揆の首謀者19名を松任城に誘い出して謀殺した。
天正10年(1582)信長没後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼした。戦後、前田利長が恩賞として松任4万石を与えられ、越前府中城より移ったが、その2年後、利長は守山城(富山県高岡市)に転封した。
松任は秀吉の直轄領となり、天正15年(1587)には丹羽長重が松任に4万石で入封した。
しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で長重は西軍に加担し、戦後、丹羽氏は改易され、旧領は前田氏に与えられ、利長は加賀・能登・越中合計122万石を領することになり、松任城は再び前田氏の持城となった。松任城には城代として赤座備後守吉家を置いたが、一国一城令に先んじて、慶長19年(1614)頃に廃城となった。
『「現地説明板&年表」、「日本城郭大系7」ほか参照』

現況・登城記・感想等

松任城址の大部分は、市街地となってしまい、遺構はほとんど残っていないが、本丸跡が「松任城址公園」となっている。
公園の南西隅に櫓台跡があり「櫓台跡」の石碑が建てられている。公園東側の内堀跡(埋め立てられている)には芝生が張られ、往時の太鼓橋をイメージした木橋が架けられ、内堀の西側には低い模擬石垣が築かれている。
また、公園の西約1.5kmにある「出城跡」も、小さな公園になり、そこにも随分立派な石碑が建てられている。
(2013/05/18訪れて)

ギャラリー

松任城縄張略図(現地説明板より)
松任城は、廃城(1614)後の約60年後に写された「松任城古図」によると、本丸・二の丸・三の丸・櫓台・出丸等の曲輪を備え、それらは幅約9~23mの水堀や空堀、土塁により守られていた。
外堀で区画された城域は、南北305m、東西301m余で、本丸は南北74m×東西53mであったと推測され、昭和34年、松任城址保存会により、城址の区域を示す高さ1mほどの石碑が、松任金剣宮・JR松任駅南・北陸信用金庫・聖興寺・信誠寺にそれぞれ建立された。
 
松任城縄張り

櫓台跡
本丸跡(松任城址公園)の南西隅に土盛がされた櫓台跡が残り、「櫓台跡」の石碑も立っている。これが、唯一の遺構といえるでしょう。
松任城櫓台跡

内堀跡
平成22年度の再整備で、公園東側の内堀石垣跡に石垣と堀跡の芝生を整備するとともに、当時の橋をイメージした太鼓橋が設置された。
松任城内堀跡と木橋

石碑
太鼓橋を渡った本丸入口付近に城址碑と松任城略年表が刻まれた石碑が建てられている。
松任城城址碑と年表碑

出城跡
公園の西約1.5kmにある「出城跡」も、小さな公園になり、そこにも随分立派な石碑が建てられている。この石碑は、高さも幅も、ゆうに2m以上ある立派なもので、勿論、本城跡の城址碑より遥かに立派なものです。出城で、こんなに立派な石碑を見たのは初めてでビックリですw(*゚o゚*)w。
尚、出城跡の公園へは、松任城址公園から県道291号線を西に向かい、750m先の成町信号で右折し県道186号線に入ります。すぐにJR北陸本線の踏切を越え、100m先を左折し住宅街に入り、150m先、水路を越えたところで左折し、40m先の小公園が出城跡です。
松任城出城の石碑

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コメント

s.y(2016/11/02)

星1つってどーゆーこと?
白山市民として許せないよ

タクジロー(2016/11/05)

そういわれてもねえ。相対的なものだから・・・。

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