主曲輪西側の土塁
後に笠間城、古河城主となった永井直勝の居城
所在地
愛知県安城市東端町中繩手(城山稲荷社)
形状
平城
現状・遺構等
現状:城山稲荷神社等
遺構等:曲輪、土塁、石碑、説明碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/01/14
歴史等
東端城(ひがしばたじょう)は、天正8年(1580)に大浜郷(現碧南市)にて*羽城の司令を勤める長田重元の長子尚勝が築いた。
城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある代表的な城郭であった。蓬左文庫蔵の「東端城絵図」
に見る東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。
東端城が歴史の表舞台に出るのは、尚勝の弟・直勝によってである。直勝は、13歳の時に、家康の長男・松平信康に仕えたが、天正7年
(1579)に信康が自刃すると大浜へ帰り蟄居していた。
しかし、その後、18歳の時には、家康に仕えるようになり、姓を長田から永井に改め、永井伝八郎直勝とした。
天正12年(1584)直勝22歳の時、初陣として小牧長久手の戦いに出陣し、敵将池田勝入斉恒興の首を取る大殊勲をたて、
これにより東端1000石の地を賜り、兄尚勝に代って東端城主となった。
その後、関ヶ原合戦でも戦功を挙げ、上総国と近江国にも領地を賜り、合計1万50石となった。
さらに大坂夏の陣では、豊臣秀頼切腹見届けの大役を勤め、この功により元和2年(1616)、上野国小幡で1万石、近江で2千石、
常陸国笠間近在で2万石、合計3万2千石を領有し、常陸笠間城の城主となった。
この時、東端城は廃城となった。
尚、直勝は、その後も業績を上げ、7万2千石を領し、下総古河城の城主となった。
『現地説明碑他より』
*羽城
天正4年(1576)
に松平元康(徳川家康)が船手の要塞として大浜に羽城を築いて長田重元に守らせた。この重元の息子が永井直勝で、直勝は後に、
常陸笠間城主となり、
羽城は廃城となった。その後、この地は大浜陣屋の敷地となったといわれている。
現況・登城記・感想等
主曲輪跡の大部分が梅林などになっているが、周囲を土塁が取り囲んでいる。
南側の土塁は、改変したもので、当時のものではなさそうだが、北・東・
西の土塁は曲輪内側では高さ1m強程度ではあるが割り合い良好に残っている。
稲荷神社は、腰曲輪跡と思われる一段低い削平地に鎮座している。
また、東側の念空寺との間の道は空堀を利用したものであろうか、幅約5~6m、高さ約3m程の間隔がある。
(2011/01/14訪れて)
ギャラリー
主曲輪
主曲輪は、100m四方ほどある広いもので、城山稲荷神社の駐車場と梅林になっている。
説明碑と城址碑
主曲輪跡の北側には城山稲荷神社が鎮座し、鳥居の脇に説明碑と城址碑が立っている。説明碑は、
表裏共に詳しく説明がなされている。城址碑は、正面は「城山稲荷大明神」、側面が「東端城址」と刻まれている。
東側土塁
主曲輪周囲は土塁が囲み、特に東側と西側の土塁は良好に残っている。曲輪(駐車場)内へは、
東側から入るようになっており、左写真と右写真の間が入口(当時の虎口かどうかは分からない)である。
西側土塁
TOP写真と同じ土塁であるが、こちらは北側から撮ったもの。
腰曲輪?
主曲輪の北側に腰曲輪様の一段低い削平地があり、稲荷神社が鎮座している。
空堀跡?
東側の念空寺との間の道は空堀を利用したものであろうか、幅約5~6m、高さ約3m程の間隔がある。