袖池越しに模擬復元の桜門を
松平竹千代(徳川家康)強奪事件の戸田氏の本拠の城
別称
巴江城(はこうじょう)
海が城の周囲に入り込み入江を形成し、その様が「巴文」状であったためそう呼ばれた。
所在地
愛知県田原市田原町巴江
形状
平山城(丘城) 標高15m
現状・遺構等
【現状】 神社、公園、博物館等
【遺構等】 復興二の丸櫓、復興桜門(櫓門)、曲輪、石垣、土塁、水堀、空堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2011/04/16
歴史等
田原城は、碧海郡上野荘の上野城(現豊田市上郷町)の戸田宗光が田原に移り、文明12年(1480)頃に宗光により築城されたという。
戸田氏は、文明13年(1481)、この地の守護代一色氏の没後、田原を拠点として、全盛期には豊橋の大崎城、二連木城、知多半島の河和・富貴まで勢力を伸ばし、三河湾を制海権下に置くようになった。
その後、4代宗光(康光)、5代尭光の時の天文16年(1547)、今川氏のもとに人質として送り届けられる松平竹千代(徳川家康)を強奪し、織田信秀に届けるという事件を起こし、このため今川義元に攻められ田原城は落ち、戸田氏は没落していった。
落城後、今川氏は城代を置いた。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後、松平元康(徳川家康)は、吉田城をはじめとする東三河の諸城の攻略をすすめ、田原城も永禄8年(1565)本多広孝が入城した。
天正18年(1590)、家康の関東移封に従い、本多広孝・康重父子も上野国白井で2万石を領した。
そして、吉田城主となった池田輝政の臣伊木忠次が城代となって治めたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の論功により池田輝政は播磨姫路城に移り、伊豆下田から戸田氏の子孫戸田尊次が1万石で入城し2代60年間在城したのち、寛文4年(1664)三宅康勝が三河挙母から入城し、以後は明治まで12代、田原は三宅氏1万2千石の城下町であった。
『「日本城郭大系9」、「愛知の山城ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
田原城の縄張は、中世に築かれた城を利用し、藤田曲輪、本丸、そして南西に二の丸、南東に三の丸、さらには出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を堀によって区画し、周囲が水堀で囲まれている。
今は、藤田曲輪や腰曲輪やその周りの堀や池などは消滅しているが、本丸・二の丸・三の丸・出曲輪が、それぞれ巴江神社敷地、田原町博物館、護国神社、崋山神社となり残っている。
復興二の丸櫓と復興桜門(櫓門)が建てられ、桜門と水堀、三の丸石垣・二の丸石垣の光景が風情ある。
また、本丸の土塁や本丸に至る土橋の両側の空堀などが残り、この辺りは戦国時代の面影を偲ばせる。
(2011/04/16登城して)
ギャラリー
縄張略図
復興桜門(櫓門)
大手道から城に向かうと左前方に近年復興された桜門が見える。桜門前両側には水堀(柝池、袖池)が設けられ、桜門へは真っ直ぐ侵入できないように西側にずらしている。
桜門前から柝池、埋門方面(左奥)を
桜門前から袖池と三の丸石垣を
柝池越しに桜門を
袖池越しに桜門を
この袖池、三の丸石垣、桜門の光景はなかなか風情がある。桜門は近年復興(ちょっと装飾過剰?)されたものであるが、石垣は16世紀頃と思われる野面積みのものがそのまま残っている。石も田原市北部から産出する石灰岩が混ざっていて、地域性が出ている。
二の丸前から復興二の丸櫓と復興桜門を
二の丸櫓は、古写真で見ると下見板張となっており、過去にあったものとは異なる外見となってしまっているようだ。
二の丸
二の丸跡には田原市博物館が建てられているが、1990年代の建設の際、施設と通路の再整備のために多くの遺構を崩してしまったそうだ。
三の丸
三の丸跡には護国神社が鎮座し、北側隅には渡辺崋山大頌徳碑が立っている。。
本丸に至る土橋
本丸に至る道は堀切が設けられ、土橋が架かっている。
土橋脇から本丸と二の丸間の空堀を見下ろす
土橋脇下に残る井戸
本丸と二の丸間の空堀を堀底から
本丸と三の丸間の空堀
この空堀は、土橋には石垣が積まれてはいるものの、戦国時代の面影を残している。
本丸
本丸跡は三宅氏の家祖である南朝の忠臣児島高徳を祀る巴江神社になっている。
本丸西側の土塁①
本丸西側の土塁が、林立する灯籠の奥に良好に残っている。
本丸西側の土塁②
本丸北西隅には稲荷神社が祀られ、朱色の鳥居の横に上写真土塁が伸びてきている。
埋門と出曲輪
二の丸と出曲輪(写真左)の間には埋門がある。出曲輪は崋山神社となり崋山会館が建っている。
新倉門
出曲輪(崋山神社)の南には新倉門が建っていたようだが、今でも、ここから奥の方に桜門を眺める道は風情がある。