美濃 苗木城(中津川市)

大矢倉上から本丸を見上げる(左上に見える石垣は菱櫓石垣)

岩村城の支城として築城された遠山氏の山城、石垣群が見事

別名

赤壁城、霞ヶ城

所在地

中津川市苗木高森2799-2
【アクセス】
苗木遠山史料館からすぐ近くです。
苗木遠山史料館:中津川市苗木2897番地の2、電話0573-66-8181

形状

山城(標高:423m、比高:150m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 天守台、櫓台、曲輪、土塁、石垣、空堀、竪堀、堀切、土橋、枡形虎口、井戸、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和56年4月22日
指定理由:戦国時代の面影をとどめている近世城郭として貴重
面積:15万6,774㎡
資料館:中津川市苗木遠山資料館

満足度

★★★★★

訪城日

2004/08/11
2013/08/11

歴史等

苗木城の創築については諸説あるが、一般的には岩村城の支城として、遠山氏の一族遠山景村が南北朝時代の建武年間(1334~35)に築いたと云われているようである。
加藤景廉を祖とする遠山氏は室町時代に恵那郡内で勢力を拡げ、岩村城に拠る本家の岩村遠山氏を中心に「遠山七頭」と云われる一族の結束を保っていた。中でも、中心となる岩村明知・苗木の遠山氏は遠山三人衆と呼ばれた。
苗木城主遠山友政は父友忠とともに織田信長に仕えていたが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の命に背いたため、森長可の攻撃を受けたので、城を捨てて徳川家康のもとに奔った。
その後、苗木城は川尻直次が領していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、友政は家康に願い出て、西軍に与していた直次の苗木城を攻め落とし、合戦後、軍功によって苗木城を回復、美濃国恵那・加茂2郡内において1万500石を与えられて立藩した。1万石クラスの大名は陣屋が普通であったが、遠山氏は城持ち大名であった。
以後苗木城は遠山氏12代の居城として明治を迎えた。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

苗木城の石垣群は、僅か1万石の城主の城とは思えない大規模なもので、正直なところ、こんなに素晴らしい城址とは想像だにしなかった。
苗木城へは城の裏手にある風呂屋門跡近くまで車で登ることが出来る。風呂屋門跡から奥に入って行くと、左手は天然の巨石を利用した壁と石垣、右手下には急崖の天然の非常に深い空堀が現れる。
そこを、さらに進むとと三の丸への入城門であった「風吹門跡」へ出る。風吹門のすぐ横(左)に大矢倉跡があり、 天然の巨石と切り込みはぎの石垣が見事に融合され実に「かっこいい」。大矢倉の上から見る本丸の姿も実に素晴らしい。
三の丸から本丸に向かうと左側には駈門跡・大門跡、右下には二の丸跡がある。大門は領主の江戸参勤出立時等の大きな行事以外は開けず、普段は左側にある潜り戸を通行していたとのことである。大門を入ってすぐ左に重要な品々が納められていたという御朱印蔵跡がある。
そこからは登り道で、綿蔵門跡・坂下門跡・菱櫓門跡と登っていくと菱櫓に出る。菱櫓跡の左奥は帯曲輪になっており的場跡とのことであるが、その帯曲輪(的場跡)を進むと 仕切門・八大竜王・清水門・不明門を経て二の丸に至るとのことである。
苗木城は、やたらと門の多い城で、城下町がある麓から本丸まで、①上ノ町門、②風呂屋門、③竹門、④風吹門、⑤北門、⑥駈門、⑦大門、⑧台所門、⑨不明門、⑩清水口門、⑪仕切門、⑫綿蔵門、⑬坂下門、⑭菱櫓門、⑮本丸口門、⑯玄関口門、⑰竹門、⑱大手門と全部で「18の門」があったという。
菱櫓石垣は切込はぎではなく、 打込はぎの石垣ではあるものの、実に綺麗な石垣である。石垣の下に千石井戸跡があり、どんな日照りのときでも水が枯れたことがなく、 俗に千人の用を達したといい、今も水が満ちている。
菱櫓脇の本丸口門跡、さらに玄関口門跡と登って行くと、天守台下の本丸玄関へ到着です。本丸はわずか400㎡にすぎず、ここに天守・台所・居間・次の間・ 千畳敷等が構えられ、岩盤そのものを天守台としていたという。
天守跡からの眺望は素晴らしく、眼下には木曽川の流れと中津川の市街地、さらにその向こう側には恵那山をはじめとする美しい山並みが望める。
天守台跡から、奥へ降りて行くと、本丸を支える石垣の一部として組み込まれたとてつもなく大きな岩があり、その横にはさらに大きな岩「馬洗い岩」がある。
そこから笠置矢倉跡・二の丸へと向かったが、巨岩がいたる所にある。そして二の丸跡には多くの礎石が転がっている。
本来の大手道である標高差150mの急峻な山道の四十八曲がり道(別名、大手口道)の方へも行きたいところであるが、時間も遅くなったので断念。それにしても至る所で、石垣に自然巨大岩を巧みに取り込んだ素晴らしい城跡であった。
(2004/08/11登城して)

9年ぶりに苗木城を訪れた。今回は、1歳5ヶ月の孫・S介と一緒の登城です(*^_^*)。苗木城跡へは、随分前に登城(帰宅してから調べたら、何と、9年前の同じ8月11日でした)して、すっかり気に入った城跡です。その苗木城へ、同じ日に、S介が「城めぐりデビュー」するは、何かの縁でしょうかと勝手に考えている私です(苦笑)。S介は、よちよち歩きにプラスすること、両手を引っ張り上げられたり、抱っこされたりしながらの初登城でした。
さて、久し振りに訪れた苗木城ですが、巨岩を上手く取り入れた石垣は、何度見ても素晴らしいです。
さらに、山頂部の天守台巨岩には、天守こそ復元されてはいませんが、巨岩の上に、以前の登城時にはなかった懸造(かけづくり)の天守基礎部分が築かれて展望台となっていて、往時の天守がどのように建てられていたのかが分かり興味深い。
展望台から見下ろす、木曽川の流れと中津川の市街地、さらにはその向こう側の恵那山をはじめとする美しい山並みの眺望は素晴らしいです。
苗木城は、何度訪れても飽きない、魅力満点の城跡です。次回は、山麓から大手道を登って登城してみたいものです。
(2013/08/11登城して)

ギャラリー

苗木城跡案内図(現地案内板より)
00案内板

苗木城跡案内図(苗木遠山史料館パンフレットより)
苗木城跡駐車場へ着く、少し手前に苗木遠山史料館があり、ここでパンフレットを戴きました。但し、風呂屋門跡に観光ポスト?があり、その中に、もっと詳しい縄張図が描かれた印刷物が入っています。
00苗木城跡案内図

【登城(2013/08/11)】
駐車場から入城
駐車場から早速、石垣が曲線を描く、趣きのある登城道となります。
01苗木城へ

風呂屋門への石塁
登城道を少し行くと、枡形の石垣が残る「風呂屋門跡」へ出ます。
01風呂屋門へ

足軽長屋跡
風呂屋門から入城すると、すぐ右手に足軽長屋跡があります。足軽が城に出仕する際には、最初にこの長屋に立ち寄ることになっていた。(説明板より)
03足軽長屋

巨岩と石垣
風呂屋門から入城し、少し行くと左手の崖には巨大な岩があり、石垣と巧妙に組み合わされています。
05巨岩と石垣

天然の大空堀
一方、右手下は天然の大空堀です。
06天然の空堀

空堀と(土橋様の)土塁
風呂屋門跡から竹門跡を経て登城道を行くと、道は二股に分かれる。道なりに真っ直ぐ(写真左側の道)進むと風吹門を通り三の丸跡に至るが、斜め右へと土橋様の土塁を進むと二の丸へ辿り着く。これら2つの道の間は空堀になっている。勿論、右側の道の右下は天然の大空堀です。
07空堀

風吹門跡
登城道を真っ直ぐ進むと、風吹門跡へ出る。門跡の左前には大矢倉の石垣が見える。大矢倉手前を左へ登って行くと北門跡へ出る。
(以下説明板より)二階が「飼葉蔵(かいばくら)」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入り口に位置する。門の右側(南側)に門番所が併置され、昼夜を問わず日地の通行を監視していた。城主の在城時は開門し、江戸在府中は締め切られ、右側の潜り戸が利用された。
 
09風吹門

大矢倉① ~三の丸から~
大矢倉は、天然の巨石と切り込みはぎの石垣(一部、打込みはぎも)が見事に融合されかっこいいです。
(以下説明板より)大矢倉は、外観から二層に見えるが、実際は三階建であった。一階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていた。苗木城最大の櫓建築で、二階、三階の壁には矢狭間が設けられるなど、大手門である風吹門や北側からの防御のために17世紀の中頃に作られた。
 
11大矢倉

大矢倉② ~菱櫓台上から~
大矢倉石垣は、何処から眺めてもかっこよく、天守台へ登って行く途中、多くの場所から望むことができるが、菱櫓台上から見下ろすこの光景が最高だと思います。
11大矢倉を1

大矢倉ズームアップ ~菱櫓台上から~
菱櫓台上から撮った上写真をズームアップしました。木の葉が、少し邪魔ですかねえ? また、葉っぱの枯れ落ちる冬にでも再登城したいですね。
11大矢倉を2

大矢倉台上
大矢倉の最上部は、穴蔵のようになっている。石垣は「打込み乱層積み」です。。
13大矢倉上にて

大矢倉台上から本丸を
大矢倉上から眺める本丸跡の姿は、菱櫓台の石垣をはじめ、なかなかのものだ。 
15大矢倉から本丸方面を

北門跡
大矢倉の裏手(北側)には北門があります。北門は城の外郭にあった土塀付きの門で、東側に下ると木曽川、北側の道は家臣の屋敷跡に通じている。
16北門跡

馬の飲み水用の池
北門跡脇にある小池は雨水が頼りの貯水池で、馬の飲み水に利用されていたそうです。
DSC05621

駈門跡の枡形石垣
駈門は、山麓の大手門から三の丸への通用口にあたり、今でも竹門を経て大手門跡へと「四十八曲り道」と呼ばれる急峻な登城道が続いているようです。 
17駈門

駈門跡から竹門跡を
駈門の正面真っ直ぐ奥(写真中央奥)には竹門跡があり、そこから「四十八曲り道」が山麓の大手門跡まで続くようです。
19四十七曲を

大門跡と奥に御朱印蔵跡
苗木城で一番大きな大門は二階建てで、二の丸と三の丸を仕切っていた。門の幅は2間半、二階部分は物置に利用されていた。領主の江戸参勤出立などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。(説明板より)  
21大門と御朱印蔵

御朱印蔵跡
切石できっちり積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵は、領地目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。 蔵への出入りには、梯子が使用された。(説明板より)
23御朱印蔵跡

綿蔵門跡
大門跡を進んで行くと、綿蔵門へ出る。ここから山頂部本丸跡へは九十九折れの坂道になる。
(以下説明板より)本丸へ上る道を遮る形で建っていた綿蔵門は、夕方七つ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。門の名の由来は、年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからきている。
 
25綿蔵門跡

坂下門跡
この門は2脚からなっており、門の礎石と手前の石段がよく残されている。坂道の下にあったので「坂下門」と呼ばれていたが、またの名を「久世門」ともいう。これは3代領主友貞の奥方の実家で苗木城改修の際に力添えした徳川家譜代の名家久世家の名からきていると伝えられている。(説明板より) 
27坂下門

菱櫓門跡
31菱櫓門

菱櫓台石垣と手前に千石井戸跡
菱櫓台石垣は切込はぎでなく、打込はぎの石垣ではあるものの、実に綺麗な石垣である。 石垣の下に千石井戸跡というのがあるが、この井戸は城内で一番高い場所に位置するにも関わらず、どんな日照りのときでも水が枯れたことがなく、俗に千人の用を達するということから「千石井戸」と名付けられているとのことです。
33菱櫓石垣

千石井戸跡
千石井戸跡を覗いてみたら、今も水が満ちていた。
34千石井戸

帯曲輪(的場跡)
菱櫓台の左(東)側は帯曲輪になっており的場跡とのことであるが、その帯曲輪(的場跡)を進むと 仕切門・清水門・不明門を経て二の丸に至る。
35帯曲輪

本丸口門跡
菱櫓台の右(西)側にあった本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総ケヤキで建てられていたことから「欅門」とも呼ばれていた。
36本丸口門

武器蔵跡(左)と具足蔵跡(右)
本丸口門跡を通り抜けると、右側に「武器蔵跡と具足蔵跡」が平面表示されている。写真は、玄関口門跡から見下ろしたものです。
(以下説明板より)武器蔵は、長さ8間(約16m)、奥行3間(約6m)の土蔵で、建物の長さから、別名「八間蔵」といわれ、大名遠山家が所持していた鉄砲や弓等の武器類が納められていた。現在、一部建物土台が崩壊しているが、礎石や縁石が往時のまま残されている。具足蔵は、2間3尺×3間の建物で、ここには領主の具足や旗が保管され、別名「旗蔵」とも呼ばれていた。

37

玄関口門と天守土台
天守への最後の門になります。この坂道を登り切ると本丸玄関へ出ます。
39玄関口門

本丸玄関
本丸玄関は、天守台より一段低い位置にあり、そのため玄関を入ると、左へと千畳敷を通って廻りこむようにして南東側から天守に入った。この辺りから上は天守曲輪とでもいうべきでしょうか。
41本丸玄関

天守台(北側から)
9年ぶりに登城したら、天守台巨岩に、天守こそ復元されてはいませんが、巨岩の上に、以前の登城時にはなかった懸造(かけづくり)の天守基礎部分が築かれて展望台となっていました。
(以下説明板より)苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4mx5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。2階は「玉蔵」と呼ぱれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6mx6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。この巨岩の上の柱と梁組は、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。

45天守展望台1

天守台(南側から)
45天守展望台2

天守展望台から南東方面の眺望
眼下に木曽川の流れ、その向こうには中津川市街、さらにその向こうには恵那山が見渡せる。まさに絶景です。
51天守からの眺望1

天守展望台から南西方面の眺望
南西恵那峡方面の景色もいいが、残念ながら完全な逆光で・・・(/。ヽ)。

51天守からの眺望2

天守曲輪から南下の馬洗岩を見下ろす
天守台からの下りは南へ・・・。天守曲輪の南下には、ちょっとした腰曲輪があり、その西側には巨大な「馬洗岩」が・・・。「馬洗岩」は、周囲約42mの岩で、昔、敵に水路を断たれた時、この岩の上で馬を米で洗い、水があるように見せたと云われています。全国各地の城にまつわるメジャーな伝説「白米城伝説」と同じですね。とはいえ、こんな岩の上に、如何にして登ったのでしょう。しかも馬までも・・・(苦笑)。
60馬洗い石

馬洗岩と天守曲輪へ向かう石段
62天守曲輪への石段

天守曲輪へ向かう石段と本丸石垣に巧みに組み込まれた巨岩
64本丸南側石垣

天守曲輪東下の巨岩
天守曲輪の東下には、馬洗岩にも負けないほどのでっかい岩がある。これがまた、見事に石垣に組み込まれているのです。
65本丸下巨岩

笠置矢倉跡
本丸南西側の巨岩の上に建てられていた矢倉跡で、笠置山が正面に見えることからこの名がつく。眺望がよいのですが、逆光で・・・(/。ヽ)。
67笠置矢倉

【二の丸跡】
今回(2013/08/11)の登城では、孫も一緒だったこともあり、二の丸の西部分(一段下)へは行かなかったので、前回(2004/08/11)の時の写真で紹介します。
二の丸西部分(綿蔵門の西下)
苗木城の三の丸と二の丸を区切るのは大門ですが、二の丸は本丸周囲を取り巻く部分と、西側の一段下の部分がある。当写真は、綿蔵門跡から見下ろした二の丸西部分の写真ですが、多くの建物の礎石が残っております。 
71二の丸

二の丸西部分東側の石垣を
綿蔵門脇からスロープを降りて来ると、二の丸でも一段低い西部分へ来ます。石垣が良好に残っております。
75二の丸から

二の丸西部分から本丸石垣を見上げる
それにしても、見事な石垣群で、とても1万石の城とは思えません。
77二の丸から本丸を

二の丸建物跡石垣群
当写真は、二の丸西部分へ下りて行って、その北方面を撮ったものです。正面奥上に見えるのは大矢倉石垣です。
74二の丸北部分を

石組みの溝
二の丸西部分には石組みの溝が良好に残っております。
78二の丸溝

不明門跡
二の丸西部分の南の方には不明門跡があります。ここから時計と反対廻りに歩いて行くと、清水門・仕切門を通って菱櫓台の東側の帯曲輪(的場)へ出ます。
79不明門

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コメント

長谷川伸八(2011/07/03)

掲載されている沢山のショットを見て、なるほど貴兄が推薦されるだけの価値が十分あることを実感!さすがに明治まで生き続けた城であったただけに城跡の保存状態が完ぺきで、岐阜県にこのような城跡が残っていたことに驚きを感じます。 夜が明けて家内に見せたらさぞ驚き喜ぶことでしょう。

タクジロー(2011/07/04)

長谷川様
コメント有難うございます。
苗木城は、本当にお薦めの城址で、私も、また再登城したいと思っています。

苗木 安孝(2011/09/28)

私は、栃木県の岩舟町に住んでいます。祖父母から昔苗木一族は城を持ち落城に会い徳川家を頼りこの地に住みついたと聞きました。また、その一族の一部が二手に分かれて浜名湖方面に逃げ延びたとも聞いています。いずれこちらも調べてみたいと思っています。苗木城跡も行ってみて大変感動したのを思い出します。苗木家のルーツとして、大変夢のある事なので詳しく知っている方が居ましたら、是非教えてください。

タクジロー(2011/10/01)

苗木安孝さま
ご訪問ありがとうございます。
由緒ある家系でスゴイですね。
苗木遠山氏については、申し訳ありませんが、「秀吉方の森長可に攻められ、家康を頼って落ち延びた」ことくらいしかわかりません。
今後とも宜しくお願いします。

井上高明(2012/05/09)

城ファンとして改めて知らないことが多いことを知りました。ありがとうございます。

タクジロー(2012/05/12)

井上様
当サイトへのご訪問とコメントを有難うございます。
井上さまのブログも、早速、拝見させて戴きました。
大変なGファンのようですね。随分、楽しませて戴きました。
今後とも宜しくお願い致します。

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