遠江 黒田代官屋敷(菊川市、旧小笠町)

黒田代官屋敷の北西隅から北側にかけての水堀

徳川直参旗本本多日向守の知行地のうち、下平川などを支配した代官所

所在地

静岡県菊川市下平川862
【アクセス】
東名高速道路「菊川IC」を下り、県道37号で小笠町方面へ5.5km程南下すると「平田」信号へ出ます。さらに200mほど南下して右折し、300mほど西進すると黒田代官屋敷跡へ出ます。道路沿いに案内が出ているのですぐ分かると思います。屋敷地内には「黒田家代官屋敷資料館」があり、屋敷のすぐ東南には大きな無料駐車場も完備されています。
黒田家代官屋敷資料館:菊川市下平川862-1

形状

平城式環濠館

現状・遺構等

【現状】 宅地ほか(国指定重要文化財)
【遺構等】 水堀、土塁、長屋門、母屋、米蔵、東蔵、西蔵、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2014/05/21

歴史等

黒田代官屋敷は、徳川直参旗本本多日向守の知行地のうち、下平川などを支配する代官所です。この代官職は、今川氏以来この地を知行する黒田氏によって継続されてきた。
黒田氏の祖は、元は足利姓であったが、越前黒田荘を領し、地名をもって黒田姓に改めたといわれる。
永禄年間(1558~70)に8代目義則が現在地に移り、屋敷を構えて初代となった。義則は、はじめ今川氏に属したが、永禄12年(1569)、徳川家康が今川氏真を掛川城から追放した際、近郷諸豪とともに徳川氏に属し、高天神城主小笠原長忠の下に組み込まれた。
元亀2年(1571)武田信玄軍による高天神城攻めの際には城を守り切ったが、その後、天正2年(1574)武田勝頼軍の猛攻を受けて、小笠原長忠が開城すると、義則・義得父子は領地平川村に帰農した。
その後、正保2年(1645)、本多利長(三河岡崎城主本多忠利の六男)が横須賀城主となると、その長兄助久(忠利の長庶子)が下平川村周辺約4千石を分知され別家を興した。黒田氏は徳川家直参旗本本多助久家の代官として、2千石ほどの領地を差配した。
これより黒田氏が代官職を世襲し明治を迎えた。
『「黒田代官屋敷資料館パンフレット」、「日本城郭大系9」ほか参照』

現況・登城記・感想等

黒田代官屋敷は、江戸時代末期の屋敷及び建物がよく保存され、昭和48年に母屋と長屋門、さらには平成5年には米蔵と東蔵に加えて附(つけたり)として西蔵と水堀を含めた屋敷地全体が国指定重要文化財に指定されました。
屋敷地は1haを越え、入口となる東南隅の一部を除いて城館の面影を残す水堀で囲まれています。
長屋門や母屋等の建物に加えて、水堀や土塁などの遺構が完存に近い形で残る代官屋敷は他に類を見ないのではないでしょうか。
(2014/05/21訪れて)

ギャラリー

黒田代官屋敷縄張図(現地説明板より)
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主屋見取り図(主屋前案内板より)
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代官屋敷周囲をめぐる水堀(北東隅から東側にかけて)
屋敷地は、入口となる東南隅の一部を除いて城館の面影を残す水堀で囲まれています。堀の周囲には散策路が設けられ、一周することができます。
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水堀(北東隅から北側にかけて)
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水堀(西側)と土塁
西側の水堀外側には土塁も残っています。
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土塁
土塁の高さは1m強ほどです。
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南西部の水堀
屋敷の南西部で堀は分かれていますが、屋敷地の南部分は
元は二重堀になっていたようです。橋の向こうの建物は黒田家代官屋敷資料館です。
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黒田家代官屋敷資料館
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長屋門(左)と米蔵(右)
長屋門で前庭と母屋のある部分を区画しています。
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長屋門
長屋門は18世紀中頃の建築と見られ、置千木(おきちぎ)を11本置く茅葺きの屋根は桁行68尺(20.6m)に及ぶ大規模なもので、昭和51年の解体修理で元の姿に修復されました。
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母屋
母屋は、安政の地震以後の建物と考えられ、建材には太い柱や梁を用いて構造的にも4尺幅(1.2m)で2列に柱を立て、梁を2層にわたして地震対策を施しています。 平成9年には解体修理を行い、綿密な調査とともに元の姿に復元されました。
尚、黒田家は、現在もご子孫が住居として使用されているので、入場はこの母屋の前までです。
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庭園
勿論、庭園内も立ち入り禁止なので、母屋の前にて写真だけ撮らせて戴きました。
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