伊勢 田丸城(玉城町)

本丸跡にて天守台を

南朝方の北畠氏が砦を築き、後に信長が侵攻し二男信雄を入れる

別名

玉丸城

所在地

三重県度会郡玉城町田丸字城郭
【アクセス】
玉城中学校の西の小高い丘の上が田丸城主郭部(本丸・二の丸・北の丸)で、玉城中学校は三の丸跡なので、玉城中学校を目指して行けばすぐ分かります。
玉城中学校:三重県度会郡玉城町田丸114−1、電話0596-58-3057

形状

平山城

現状・遺構

【現状】城址公園、玉城中学校ほか
【遺構等】移築城門(富士見門)、曲輪、天守台、石垣、櫓台、土塁、水堀、空堀、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2004/02/08
2009/03/15

歴史等

田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台になった。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村(現津市美杉町)に多気館(多気御所)を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。
天正3年(1575)織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には3層の天守閣を建て、田丸城と改称した。天正8年(1580)には、放火によりこの天守閣をはじめ城は全焼し、信雄は松ヶ島城を築いて移った。
同12年(1584)蒲生氏郷が松ヶ島城主になると、妹婿の玉丸直昌が田丸城を修築し、城主となった。
同18年(1590)氏郷の会津転封につれて直昌も三春城へ転出となり、その後、田丸城は稲葉氏に与えられたが、大阪の陣後は藤堂高虎の所領となり、元和5年(1619)徳川頼宣が和歌山城主になると田丸はその飛び地となった。
頼宣は家老の久野宗成に田丸を治めさせ、以後久野氏が代々城代を勤め、明治を迎えた。
城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年(1871)には城内の建物は取り払われた。
昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、*村山龍平の寄附により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
『「現地説明板」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」より』

【*村山龍平】
伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)生まれ。実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。明治維新後、一家を挙げて大阪に移住、父とともに西洋雑貨商「田丸屋」(後に「玉泉舎」)を営む。明治12年(1879)朝日新聞の創刊に参加。1891年に衆議院議員に当選。1930年に勅選貴族院議員となった。933年に84歳で死去。娘婿は村山長挙(朝日新聞社長)。

現況・登城記・感想等

伊勢神宮の帰りに寄ってみた。
ほとんど知識もないまま言ったので、遠くの小いさな丘の上に見える田丸城址の石垣に驚きました。大袈裟ではなく、その時は、まるでマチュピチュのような気さえしましたw(*゚o゚*)w。
三の丸だった所が玉城町の町に埋もれ玉城中学校などが建てられていますが、それ以外の遺構の多くは良好に残っています。
山頂部の主郭部の3つの曲輪が本丸を中心に連郭式に配置され、それらの曲輪の間には空堀が設けられています。そして、天守台をはじめ、本丸・二の丸・北の丸の石垣が良好に残っています。
また、水堀も各所で埋め立てられてはいますが、外堀や内堀がかなり残っています。
登城前は、こんなに素晴らしい城跡とは想像だにしていなかったので、随分、得した気分になりました(*^_^*)。
(2004/02/08登城して)

5年ぶりの登城ですが、今回も伊勢神宮参拝の帰りに寄りました。
前回は、廻らなかった主郭下周囲の三の丸跡辺りも廻ってみましたが、水堀等がよく残り往時を偲ばせてくれ、往時の城の全体像もかなり分かりました。
田丸城跡は、城址公園として整備が行き届いていて散策しやすいし、また何度登城しても楽しませてくれる城址です。
惜しむらくは、登城したのが、前回も今回も夕方になってしまったので、イマイチ気に入った写真が撮れなかったことです。
次回は、もっと明るい時間に登城したいと思います。
(2009/03/15登城して)

ギャラリー

田丸城縄張図(現地案内板より)
田丸城縄張図

田丸城址遠景 ~画面をクリックにて拡大画面に~
初めて、この光景が見えた時には、想像だにしていなかった石垣の素晴らしさに感動しました。
田丸城遠景

大手門橋と大手門跡
外堀に架かる大手門橋を渡って入城すると、正面の小高い丘の上に田丸城跡の主郭部が見えます。
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二の門跡
大手橋を渡り進むと二の門跡へ突き当たります。この虎口は屈曲した道の喰違い虎口になっており、ちょっとした枡形を形成しています。この辺りの石垣も良好に残っています。
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二の門手前左(南)側の水堀
この辺りの水堀と石垣は良好に残っており風情があります。
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本丸と北の丸の石垣
二の門を入り、くねくねした道を登り三の丸跡に建つ玉城中学脇を登ってくると北の丸(写真右)と本丸(写真中央上)の石垣が見えてきます。ここに4~5台駐車できます。
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本丸虎口
本丸虎口も喰い違い虎口になっており、二重枡形のようになっています。
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本丸跡1
本丸跡の北端(写真右奥)に天守台が残っています。
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本丸跡2(天守台上から撮影)
写真奥の石垣の向こうが二の丸です。
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天守台
織田(北畠)信雄により、三層の天守が建てられたが、僅か5年で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。
尚、天守台は穴蔵付きの独立系天守で、手前に付属櫓のようなものがあったようです。
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天守台穴蔵
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天守台上からの眺望
本丸(勿論天守台も)からの眺望は非常に良い。本丸下には腰曲輪があり、出丸?(多分、櫓か何らかの建物が建っていたのであろう)が突出しているが、その石垣の姿がかっこいい。
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天守台上から三の丸跡
主郭部の北側の三の丸跡には多くの建物が建ち、玉城中学校が建つ辺りは御殿跡のようです。
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二の丸へ
本丸の南側には二の丸が設けられています。
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本丸と二の丸間の堀切(西側) 
本丸と二の丸間は堀切で断ち切られています。写真奥が本丸跡です。
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二の丸石垣と三の丸  
本丸と二の丸間をつなぐ土橋の上から東側の堀切を撮ったものですが、二の丸の石垣もなかなかかっこいいです。尚、左下に見えるのはは三の丸跡の玉城中学校の校庭です。
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本丸と二の丸の間をつなぐ土橋と本丸虎口(写真奥)
当写真は本丸と二の丸を繋ぐ土橋を二の丸側から撮ったものです。土橋の奥に見える本丸虎口は桝形虎口様になっています。 
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富士見台
二の丸跡の富士見台上には往時は櫓が建てられていたことと思われます。
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本丸跡から北の丸跡を
本丸と北の丸の間も堀切で断ち切られています。塔写真は本丸跡から堀切越しに北の丸跡を撮ったもので、北の丸も石垣造りであったのが確認できます。
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北の丸跡にて
北の丸跡には城山稲荷神社が鎮座し、多くの赤鳥居が立っています。
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富士見門
北の丸の北東下の道路脇に富士見門(長屋門形式)が移築されています。この門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門でした。 
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外堀
富士見門が移築されている北側の方には堀跡が確認できます。外堀のようで、元々は水堀だったと思われますが、この辺りは多くの水が枯渇してしまっています。
そういえば、大手門橋の両側の外堀の写真を撮り忘れただけでなく、見るのも忘れてしまいました(;>_<;)。
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コメント

みえのやっちゃん(2015/01/18)

小雨降る日、登城してきました。
なんと、二層二階の天守閣が建てました(ピケ足場 透明ビニール張り) 
たぶん花まつりの準備だろうと思いますが 夜行くと綺麗だと思いますよ?

タクジロー(2015/01/19)

是非、行って見たいところですがねえ。
何分、遠すぎますので(/。ヽ)

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