伊勢 松坂城(松阪市)

遠見櫓下から本丸北東面の高石垣を

蒲生氏郷の築城、江戸期は紀州徳川家の領地となり城代が置かれた

別名

四五百城・鶴城

所在地

三重県松阪市殿町

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 松阪公園
【遺構等】 曲輪、石垣、井戸、堀、移築門、御城番屋敷(同心長屋)2棟、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1996/04/07
2010/02/08
2018/09/17

歴史等

松坂城を築いたのは、戦国の麒麟児とも称される青年武将蒲生氏郷である。
氏郷は少年時代に織田信長のもとで人質となったが、伊勢平定の合戦で働きを認められて、信長の部将として頭角を現していった。
天正12年(1584)、松ケ島城 (松阪市松ケ島町)12万3千石でに封じられた氏郷は、松ケ島城が手狭なことから、四五百(よいお)の森と呼ばれた標高30mほどの小山に目を付け、ここに新たに新城を築城した。また、吉祥の木である「松」と、秀吉の居城大坂城から「坂」の一字を拝領して「松坂城」と命名した。松坂城は、全体を堀で囲み、中心部を階段状にして、最高所に天守を置き、これを囲むように、本丸、きたい丸を置き、この南側に二の丸、隠居丸を置いて、それぞれを堅固な高石垣で囲んでいる。その石垣は、野面積みの石垣の堅固さでは日本の城郭の中でも5指に入ると云われている。
また、城下町の建設にも力を注ぎ、松ヶ島の町民を強制的に移住させるとともに近江日野の商人も松坂に移し、楽市楽座の制度を定め、城下の繁栄をはかった。
築城間もない天正18年(1590)、氏郷は小田原の陣での戦功によって、92万石の太守となって会津黒川城(のちの会津若松城)に移った。しかし、これは氏郷の才を恐れた豊臣秀吉が天下を望めない辺境の地に追いやったものとされる。
翌年、服部一忠が3万5千石で入ったが、一忠は「豊臣秀次事件」に連座してその罪を秀吉に問われ、文禄4年(1595)切腹自害した。同年、古田重勝が3万4千石で近江日野(滋賀県日野町)から入ったが、重勝の跡を継いだ弟の重治は、元和5年(1619)石見浜田(島根県浜田市)に転封となった。
以後は紀州藩徳川家の領地となったが、城は破壊されることなく、城代が置かれ陣屋として明治まで存続された。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「蒲生氏郷・佐竹申伍著(PHP文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

松坂城(まつさかじょう)は四五百森(よいおのもり)の丘陵を切り通して、東丘と西丘に分断し、東丘を城地とし、西丘は自然のままの森として八幡宮を勧請して城の鎮守とした。
東丘に築かれた城は、本丸・二の丸・隠居丸・稀代丸から構成され、それぞれの曲輪には高石垣を築いている。また、平坦地を三の丸とし、外郭に堀をめぐらせていた。
現在、松坂城跡は松阪公園となり、往時の建物はなく石垣が残るだけだが、この石垣が実に見事である。
山頂部の2段になった本丸を中心に二重、三重に重なった高石垣は何処をとっても、何処から見ても見応え満点である。
また、各曲輪への複雑な虎口(門)跡の石垣や石段が、これまた実に素晴らしい。
まず、城跡への登城道は表門跡と裏門跡の2ヶ所だけであるが、どちらも見事な構えをしている。
そして、何よりも好きなのは、裏門跡から二の丸跡を経て中御門跡・本丸跡下段・本丸跡上段へと続く道だ。この、ごく短い距離を進む道は、縄張が複雑であるというだけでなく、高石垣と石段の光景が実にかっこいい。
今回の登城では、単なる蒲生氏郷びいきからではなく、松坂城跡の素晴らしさを再認識した。
(2010/02/08登城して)

次男家族と実家(四日市市)からの帰りに「和田金」へすき焼きを食べに行きましたが、高速での渋滞がなく、予約時間より2時間近く早く松阪に着いたので、久し振りに松坂城へ寄りました。勿論、次男家族は初めてです。
蒲生氏郷ファンの私には、松坂城は何度訪れても見応え充分で満足しましたよ。
(2018/09/17登城して)

ギャラリー

縄張略図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~

【大手口から登城】
大手道を通り、表門に向かい登城する。
大手口

表門跡
表門から見上げる本丸の高石垣が見事だ。本丸下には何故か「松坂城跡」ではなく「松阪城跡」と刻まれた石碑が立っている。
表門

月見櫓
本丸石垣に沿って左手へ向かうと、右上に本丸下の段の東角にある月見櫓の石垣が見える。
月見櫓

二の丸から本丸下の段の石垣を
月見櫓の下を通り二の丸へ出ると、本丸下の段の長~く続く高石垣が見えてくる。
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【搦手口から】
一旦、搦手口へ廻り、裏門方面を眺める。右上には、櫓が建っていたであろう。その石垣がなんともかっこよい。
搦手口

裏門跡
再度、裏門から登城する。この高石垣に囲まれた光景が見事だ。
裏門跡

裏門脇の櫓台上から本丸下の段の高石垣を
裏門脇の櫓台上に登り、先ほどの本丸下の段の高石垣を。左が太鼓櫓石垣、右端が月見櫓石垣である。木が、少し邪魔だが、何とも云えずかっこいい。
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【中御門を通って本丸へ】
中御門跡・本丸跡下段・本丸跡上段へと続く。このごく短い距離を進む道は、縄張が複雑であるというだけでなく、高石垣と石段の光景が実にかっこいい。

まずは、右手に太鼓櫓石垣を見て
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中御門跡
この屈折した登城道と、周りの石垣とのコラボがgood!
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本丸下の段
裏門から登り始めて、何度も曲がってきてやっと本丸下の段へ出る。正面奥が月見櫓跡。
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さらに石段を
本丸下の段から、さらに折れ曲がった石段の道を登ってやっと天守のある本丸上の段へ着くのだ。
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本丸上の段(金の間櫓跡から撮影)
本丸上の段は周囲を石塁で囲まれている。西角に天守台(左奥)と敵見櫓台、東角には金の間櫓跡(写真の手前になる)がある。
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本丸上の段(天守台上から撮影)
正面奥が金の間櫓台。 
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天守台(本丸上から)
本丸上から撮ったものでが、上から見ると、あまり絵にならないですね!?
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天守台と敵見櫓台
本丸の西下にある稀代丸から撮ったもの。左が敵見櫓台で、右が天守台。天守台の右奥の方の崩れかかったような土壇にも石段があり、天守台へ登れるようになっている。この折れ曲がって登る石段、少し崩れていて、妙に印象深かったので下の段に写真を。
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稀代丸から天守台上の妻と二男S介の家族を見上げる。(2018/9/17登城時撮影)
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天守台の石段
天守台の上から撮ったものであるが、何故か、この石段が妙に気に入った。妻と次男S介家族は、ここから天守台上へ登った。
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稀代丸
稀代丸は、梅林になっているが、まだ季節的に少し早かったので、蕾がちらほらだったが、満開に頃に来たら綺麗なことだろう。松坂城は、長期戦に備えて、城内に竹薮と梅林があった。竹薮は防御とともに槍や弓矢に使うため、梅林は食糧用のものであった。現在でも、梅林は、桜とともに名所になっている。
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稀代丸西面の横矢のかかった石垣
角櫓台の上から撮ったものであるが、この横矢のかかった石垣が見事だ。
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助左衛門御門跡
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井戸
歴史民俗資料館の前にある曲輪跡に残る井戸で、城内でも最古に属する井戸である。松阪公園内には。この井戸と、本丸上段部と隠居丸庭園内の3ヶ所に江戸時代以来の井戸が現存する。
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二の丸東面石垣
松坂城の高石垣は、本丸石垣だけでなく二の丸の高石垣も素晴らしい。
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二の丸南面石垣
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隠居丸~裏門~二の丸にかけての高石垣
この隠居丸~裏門~二の丸にかけて長く続く高石垣は見応え満点だ。奥の木がなかったら、もっとよく見えるのだが・・・。
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【武家屋敷(御城番長屋)】
武家屋敷は、紀州藩士の組屋敷として建てられ、御城番屋敷と呼ばれた。武家屋敷が長屋になっている例は全国的にも極めて珍しく、松阪を代表する景観である。現在も住居として使われているその建物は、生垣の奥に控えた旧武家らしい佇まいを現在に至っても保っている。
(二の丸上から撮影)
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(城側から)
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(武家屋敷から裏門方面を眺める)
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コメント

玉野和哉(2014/01/19)

久ぶりにタクジローのサイトを閲覧しました。
近江蒲生氏と薩摩蒲生氏の出目について------。
[近江蒲生氏]
藤原鎌足→藤原一族を始祖とする、藤原惟俊の代から蒲生氏と称した。
室町時代に近江国守護大名の六角氏に仕え、六角氏滅亡の後、織田氏に属し、その後、豊臣政権に活躍した。
[薩摩蒲生氏]
藤原鎌足から15代藤原教清を租とする。
藤原瞬時は、大分の宇佐八幡宮留守職となって豊前に下向、薩摩蒲生城に拠って、蒲生氏と称した。
その後、島津氏との抗争に敗れて以降、島津氏に属す。

近江蒲生氏と薩摩蒲生氏は、藤原鎌足→不比等→房前→秀郷よりの武家藤原一族の系統。

[注:尊卑分脈・続郡書類従本より引用]

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