石見 浜田城(浜田市)

浜田城本丸周囲の石垣

伊勢松坂から移った古田氏が築いた城、幕末には長州軍に追われ飛地の鶴田へ

別名

亀山城

所在地

島根県浜田市殿町
【アクセス】
ナビで殿町を指定すると、浜田城が出て来ると思います。また、町のあちこちに案内板があるので、すぐ分かると思います。護国神社の駐車場を利用しました。

所要時間

今回の見学時間は40分でした。

形状

平山城(標高68m)

現状・遺構等

【現状】 城山公園、浜田護国神社ほか
【遺構等】 曲輪、石垣、門(津和野藩庁門)、石碑、標柱、説明板、遺構説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/11/25

歴史等

浜田城は、元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が5万4千余石を領してこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手し、元和9年(1623)5月には城および城下町が整った。
慶安元年(1648)、2代重恒はお家騒動によって改易となった。
翌慶安2年(1649)、播磨山崎から松平(松井)康映が5万石で入封した。その後、浜田騒動・春定用捨事件・鏡山事件等々があったが、5代康福の時の宝暦9年(1759)、下総古河へ転封となった。
代って本多忠敝(徳川四天王本多忠勝の末孫にあたる本多家7代忠良の次男)が5万石で入封したが、僅か6ヶ月後の7月に33歳で没し、信濃松代藩主真田信弘の六男忠盈が娘婿となって家督を継いだ。そして、2代忠粛の時の明和6年(1769)に三河岡崎へ転封となり、再び松平康福が入城した。
天保6年(1835)密貿易が幕府に発覚し(竹島事件)、天保7年(1836)松平康任は陸奥棚倉へ転封となった。
代って、上野館林から松平(越智)斉厚が6万1千石で入封した。
慶応2年(1866)、第二次長州征伐の際、大村益次郎指揮の長州軍の進攻を受け、城主・松平武聡は城と城下を焼き放って逃れ、一時松江藩へ退避したが、慶応3年(1867)浜田藩の飛び地・美作鶴田へ移り明治を迎えた。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

浜田城は、北の松原湾と南から西に流れる浜田川に囲まれた独立丘陵亀山に築かれている。
縄張りは、山頂部に本丸を置き、その下に二の丸、さらに山麓に三の丸が構えられ、南方に出丸(夕日の丸)が築かれていた。
現在、本丸周辺は城山公園として整備され、二の丸は護国神社の境内となっているが、山麓の内堀は埋められ、三の丸は市街地に埋まってしまった。
本丸周辺の枡形虎口をはじめとする石垣遺構は近世城郭だけに、なかなか見応えがある。
また、雨が上がって風が強くなったこともあり、本丸跡から大荒れの日本海を見て旅情に浸りました。やはり、冬の日本海は情緒がありますね(*^_^*)。
(2013/11/25登城して)

ギャラリー

浜田城縄張図(現地説明板より)
山頂部に本丸を置き、その下に二の丸、さらに山麓に三の丸が構えられ、南方に出丸(夕日の丸)が築かれていました。
①三重櫓、②玉蔵、③六間長屋、④本丸一ノ門、⑤ニノ門、⑥出丸、⑦焔硝蔵、⑧中ノ門、⑨裏門、⑩大手門、⑪御殿、⑫南御殿、⑬茶屋、⑭庭園、⑮船蔵
0浜田城縄張り

浜田城の復元CGI
車を停めて、本丸跡へ向かうと、神社脇に浜田城の復元CGIが載った案内板があります。
以下、案内板より、
浜田護国神社正面左手から見上げた復元図です。山頂に構えられた本丸には天守の代用である高さ約14mの三重櫓がそびえ、その右手に本丸一ノ門と一般には多門櫓と呼ばれる六間長屋の屋根が見えます。本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手にはニノ門が見えます。
00浜田城CGI

二の丸跡(護国神社)
二ノ丸跡は、護国神社の境内となっていますが、ここまで車で登って来ることが出来ます。護国神社は、明治維新後の戦没者2万8千柱を祀っっているそうです。境内には、忠魂碑や戦前の教科書に載っていた地元浜田歩兵第21連隊に所属し、敵の弾を受けてもラッパを放さなかったいう木口小平の銅像(右手前)などの像が数多く立っています。
01二の丸跡

石垣と城門
護国神社の駐車場に車を停め、本丸跡へ向かうと、神社裏側(北側)に石垣、その左手に城門(旧浜田県庁門・津和野藩武家屋敷門)が見えてくる。石垣は、さすがに近世城郭らしい高石垣です。
02石垣

旧浜田県庁門(津和野藩武家屋敷門)
この門は、浜田城と関係がなく、元々津和野藩庁にあったものを明治初年、浜田県庁舎を建てた時に県庁の門にするために移した。その後、現在に移したものであるが、まったく違和感がないほど調和しています。尚、本来はこの場所に門はなかったようです。
03城門

石段と石垣
門をくぐり、石段を登って行くと、枡形虎口のような場所が現れますが、その石垣が何ともかっこいいです。しかし、ニノ門の遺構説明板によると、当城における枡形虎口はニノ門だけとありました。そして、ここには案内板などもなく、城の縄張図にも名称等が出ていません。門もなかったのでしょうかねえ?
05枡形石垣

枡形?
上写真の枡形のような場所は、Uターンするように曲がって登るようになっています。それにしても、周囲の石垣がかっこいいです。
07枡形

三丸石垣
この石段を登ると、「三丸」と呼ばれる狭い曲輪へ出ます。
09三丸石垣

ニノ門跡
ニノ門は階下に門、階上に長屋をのせた櫓門で、両脇の石垣上には長屋に接して塀をめぐらせていた。この門の奥は枡形虎口になっている。
11ニノ門

ニノ門の枡形
このニノ門の枡形虎口は浜田城で唯一の枡形だそうですが、枡形虎口の石垣は、どこの城もかっこいいですね。
14ニノ門枡形

二丸跡
ニノ門を入ると二丸と呼ばれる狭い曲輪です。当写真は本丸虎口から二丸を撮ったものですが、二丸と二の丸は違うようですが、ややこしいですね。右奥に見えるのはニノ門の枡形(上写真と同じ)です。
15二丸

一ノ門(本丸虎口)
本丸への虎口は、平虎口です。本丸虎口は、この一ノ門だけだったようです。
21本丸虎口

本丸へ
一ノ門をくぐると低い石垣を方形に囲った三間四方の空間があり、門の右横に接して六間長屋(いわゆる多聞櫓)があったそうです。
IMG_5613

三重櫓跡
本丸の西隅には天守の代用ともいうべき三重櫓が建っていたという。その場所に、石が転がって?いました。説明板には、この石のことが載っていませんが礎石でしょうか?礎石というには頼りないような気もしますが?
天守跡

本丸から眺める松原湾
当日は、朝から雨でしたが、浜田城跡に着いた頃には、雨が上がって風が強くなったこともあり、本丸跡から大荒れの日本海を見て旅情に浸りました。やはり、冬の日本海は情緒がありますね(*^_^*)。
眺望

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