今尚残る壮大な石垣と水堀
伏見城廃城に伴って京都守護の役割を担わされた松平定綱が入部し築城
所在地
京都府京都市伏見区淀本町(京阪電車「淀駅」のすぐ前)
形状
平城
現状・遺構等
遺構等:天守台、石垣、水堀、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
1995/09/10
2006/12/22
歴史等
本来淀城は次の三つが存在する。
①戦国時代に築城された淀城で、納所地区(木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸)にあったとされる。
②豊臣秀吉が側室茶々に与えたものであり、これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。これも納所地区にあったとされ、
近年の発掘で城下町が形成されたことが明らかになっているが、典型的な館城であり、戦略拠点となりえるものではなかったと思われる。
現存の淀城址の北方に位置し「淀古城」と呼ばれる。
(①を大修築したものと考えられる)
③徳川幕府によって築城された淀城。
この淀城址は、③であり、徳川2代将軍秀忠が、元和5年(1619)の伏見城廃城に伴い、
新たに桂川、宇治川、木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平定綱に築城を命じて、元和9年(1623)に着工した。
旧伏見城の廃材や二条城の天守閣などを転用し、
寛永2年(1625)に竣工した。
本丸、二の丸を内堀で囲み、周囲に三の丸と西の丸、さらに東曲輪を築き、淀川や宇治川を外堀とした大城郭を築いた。また、
城内へ水を引き入れるために櫓脇に水車が備え付けられていた。水車は直径8mもあり城の西南と北の2ヶ所に取り付けられていた。本丸には、
4隅に小櫓を従えた5層の天守閣が建てられた。天守は当初、伏見城から移す予定であったが、
伏見城天守は二条城へ移築されたので二条城天守を淀城に移したと云われている。
また、城下町を貫通する形で京街道が設定され、淀城大手門はこの京街道に面して設置された。
寛永10年(1633)松平定綱が美濃に転封後は、永井尚政が10万石で入封した。寛文9年(1669)永井尚征が丹後に転封し、
石川憲之が6万石で入部し、さらに戸田氏、松平氏とめまぐるしく城主が交替した。
しかし、享保8年(1723)松平乗邑が下総に転封し、春日の局の子孫である稲葉正知が下総佐倉から入部すると、
以後明治までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2000石の居城であった。
『「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」、「現地説明板」、「日本100の城(日本交通公社刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
当初は、淀君の淀城のつもりで訪城したが、徳川時代のものということでがっかりした。しかし、
石垣と堀は予想を遥かに超えた非常に良好な状態で残っており素晴らしかった。また、穴蔵になっている天守台も残っていたが、
残念ながら柵がしてあり入れない。。淀君の淀城は北500m位のところに石碑があるそうだが、見つけることが出来なかった。
(1995/09/10に訪城して)
11年ぶりに登城した。相変わらず穴蔵のある天守台の中には入れなかったが、
前回は気が付かなかった天守台横にある井戸跡と手水鉢があるのと、
天守台石垣の石の多くに島津家の紋である丸に十の字が刻まれていることを70歳代位の地元の人が教えてくれた。また、その方によると、
子供の頃に堀に潜ると千両箱があったとのこと。しかし、これはちょっと「まゆつば」だろう!!
また、今回も北500mの所にあるという淀古城の石碑を捜したが見つからなかったのは残念であった。
地元の人20名以上の方に聞いたが誰も知らなかった。淀古城と江戸時代のこの淀城が違うことさえほとんどの人が知らなかったのには絶句!
こちらがマニアックなのかなあ!!
(2006/12/22登城して)
ギャラリー
淀城の図 ~クリックにて拡大画面に~
本丸、二の丸を内堀で囲み、周囲に三の丸と西の丸、さらに東曲輪を築き、
淀川や宇治川を外堀とした大城郭であった。
石垣(右奥が天守台)
天守台(すぐ傍を京阪電車が)
天守台穴蔵
㊨天守台には柵で穴蔵への侵入禁止、㊨写真は柵の隙間から穴蔵を撮る。
㊧本丸からの天守台、㊨その石に島津家家紋(島津も築城に参加?あるいは伏見城からのもの?)
㊧本丸に残る井戸跡(奥に手水鉢)、㊨木の根に埋まった手水鉢
京阪電車淀駅前に建つ、㊨淀城址の石碑と㊨京都街道の石碑