国宝現存天守
井伊家15代270年の居城、国宝現存天守が残る
別名
金亀城
所在地
滋賀県彦根市金亀町
形状
平山城
現状・遺構等
現状:金亀公園
遺構等:本丸跡に天守(国宝・三層三階の層塔型)、太鼓門・続櫓、西の丸三重櫓、天秤櫓、廊下橋、二の丸佐和口多聞櫓、二の丸厩長屋、二の丸跡に玄宮園、楽楽園(槻御殿)、表門口に表御殿(復元)、石垣、水堀(完存)
満足度
★★★★★
訪城日
1990/05/05他
2010/01/28
歴史等
関ヶ原合戦の後、徳川家康は若狭・近江・伊賀・伊勢という日本海側と太平洋側を結ぶ日本を東西に分けるラインに信頼できる大名を配して、大坂城に拠る豊臣方に備えて防衛線を構築した。
中でも、琵琶湖は京と日本海側を結ぶ重要な水路であり、琵琶湖の東は、北国街道、中山道、東海道が合流して京に入る重要な交通の要衝であった。そこで家康は、最も勇猛で忠実な家臣である徳川四天王の一人井伊直政を近江北東部に封じた。
直政は、とりあえず石田三成の居城であった佐和山城に入城したが、城を修築しないで新しい場所に新城を築くことにした。当初は湖岸に近い磯山(米原市磯)の予定だったらしい。
しかし、直政は関ヶ原合戦での傷が悪化して慶長7年(1602)死去してしまった為、実際の築城は嫡男の直継(のちに直勝)によって行われた。尚、直継は病弱を理由に、元和元年(1615)3万石を分知され、上野安中に移り、庶弟直孝があとを継いだ。
城地は再考の結果、佐和山城のすぐ北東にある彦根山(金亀山ともいった)となった。家康は7ヶ国12大名に助役普請を命じ、慶長8年(1603)から元和8年(1622)まで20年を費やして完成した。この時、佐和山城・ 大津城・ 長浜城など近隣の城の遺材を転用した。天守は4層の大津城天守を3層に縮めて移築したといわれている。
井伊家は直政以来、譜代大名筆頭の家柄をほこり、幕閣の最高位執権・大老につく者が5代におよんでいる。
幕末には、安政5年(1856)大老となり、反対派の大名・志士を弾圧逮捕(安政の大獄)し、万延元年(1860)江戸城桜田門外で暗殺された15代藩主井伊直弼が登場する。
直弼のあとには、直憲が16代を継ぎ、藩政を刷新すべく、安政の大獄を画策した長野主膳らを処刑した。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いには、最初から薩摩・長州側に与し、幕府軍と戦い、関東から奥羽へ転戦した。
『「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「大名の日本地図」等参照』
現況・登城記・感想等
彦根城というと、どうしても井伊直弼を思い浮かぶせいか国宝天守とはいいながら優美さを感じない。尤も、4層の大津城天守を3層に縮めて移築したということなので、全くの素人の私が見ても、不自然な感じがしたのかもしれない。
ただ、庭はなかなかのもので、特に梅林は、その季節に来たらいいだろうな。
次回は、変な先入観なしで、歴史的文化遺産をじっくり見て回ろう。
(1990/05/05登城して)
実に、20年ぶりの登城だ。
余計な先入観を持たずに登城さえすれば、建造物遺構も多く残り、見応えのある城であることは間違いない(苦笑)。
中でも天守は3層3階で比較的小ぶりではあるが、外観意匠は華美で、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様し、2層と3層には「花頭窓」、3層には「高欄付きの廻縁」をめぐらせ、1層だけが下見板張りという変化に富んだ造りになっている。
また、近世の城には珍しく、大堀切や竪堀なども見られ、水堀も完存、石垣も多様でと見どころ満載である。
(2010/01/28登城して)
ギャラリー
佐和口多聞櫓(現存、重要文化財)
今回は城の東側の佐和口から入城。佐和口は中堀に開く4つの口の1つである。正面左側が江戸時代に築かれた多聞櫓で、端部に二重櫓を構えている。右はコンクリートで復元されたものである。
馬屋(現存、重要文化財)
佐和口を入ると、左手に馬屋がある。現存する日本唯一の城郭内の馬屋で、番所小屋が付設している。
内堀
内堀の石垣は、上端の鉢巻石垣と、下端の腰巻石垣によって構えられ、その間は芝土居となる。近畿地方では、ほとんど見られない石垣構造である。
表門へ
表門から
内堀に架かる表門前の橋を渡ると左手上に登り石垣、右奥には彦根城博物館が・・・。博物館は外観は明治まで残されていた表御殿を再現したものである。表御門は築城当初は山上の本丸に構えられていたが、大坂城落城後の第2期築城工事で山麓に移された。
登り石垣
斜面を高さ1mほどの石垣が、鐘の丸に向かって伸びている。石垣の左側の溝状に窪んでいるのは竪堀で、登り石垣とともに、斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれた。彦根城には、全国的にも珍しい登り石垣が他にも4箇所ある。登り石垣は、秀吉が晩年行なった朝鮮出兵の際に、朝鮮各地で日本軍が築いた倭城において顕著に見られる城郭遺構で、日本では他には洲本城や松山城など限られた城にしか見られない。
表坂
太鼓丸と鐘の丸間の堀切に架かる廊下橋(左は天秤櫓)
表坂を登って行くと、天秤櫓の直下へ出る。太鼓丸と鐘の丸を断ち切る堀切の底部である。廊下橋は、敵が到来すると落すこと出来た。近世城郭で、このような堀切が構えられるのは珍しく、築城時は、まだ大坂城の豊臣家が健在だったことを物語っているのだろう。
天秤櫓(現存、重要文化財)
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要の位置に築かれた櫓で、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に二重櫓を設けて、中央に門が開く構造になっている。両隅の櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど左右対称ではない。また、土台となる石垣も左右で積み方が全く異なり、向かって右側が築城当初の石垣(牛蒡積み)で、左側は幕末に積み直された石垣(落とし積み)である。尚、「井伊年譜」には、天秤櫓は長浜城の大手門を移築したものと記されており、昭和30年の解体修理で、移築された建物であることは判明したが、長浜城大手門とまでは断定するには至っていない。
太鼓門櫓及び続櫓(現存、重要文化財)
太鼓門は、本丸表門を固める櫓門で、天守を目前にした最後の城門である。その前面(写真左)には、自然の岩盤を利用して築かれている石垣がある。。
太鼓門櫓及び続櫓(現存、重要文化財)
櫓門としては珍しく、その背面が開放されて高欄付の廊下になっている。
本丸
現在の本丸には天守しか建っていないが、往時は、藩主の居館である「御広間」や「宝蔵」「矢櫓」「着見櫓」なども建っていたが明治になって取り壊された。
天守閣(現存、国宝)
3層3階で比較的小ぶりではあるが、外観意匠は華美で、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様し、2層と3層には「花頭窓」、3層には「高欄付きの廻縁」をめぐらせ、1層だけが下見板張りという変化に富んだ造りになっている。尚、「井伊年譜」には大津城の天守を移築したと記されている。
天守閣からの眺望(琵琶湖方面) 1990/05/05登城時
今回(2010/01/28)の登城時は雨で景色は全く・・・。
西の丸三重櫓(現存、重要文化財)
本丸の北西に構えられた西の丸には西の丸三重櫓が配されている。三重櫓と東側の多聞櫓、西側の多聞櫓からの続櫓で防御されている。
西の丸への枡形虎口
西の丸と出郭間の堀切
西の丸三重櫓の外にも大堀切が設けられている。大堀切の外側(写真奥)は、「馬出し」の機能を持つ出郭で、ここの石垣は穴太衆により築かれたという。
出郭から堀切越しに西の丸三重櫓を
大手門跡と大手橋