安芸 新高山城(三原市)

釣り井の段から本丸下への虎口付近に残る石垣

小早川隆景が妻高山城の対岸の城を大改修し移った、三原城へ移るまでの本拠

別名

雄高山城

所在地

広島県三原市本郷町本郷・船木
【アクセス】
県道33号線 「本郷橋東詰信号」を西へ沼田川を渡り、渡り終わってすぐを右折する。川沿いに800m程北上すると道路沿い「上水道管理事務所」の前に登城口の案内板がある。登城口を過ぎて50m程北上した左手に登山者用駐車場が完備されている。

形状

山城(標高197.6m、比高184m)

現状・遺構等

【現状】 山林 (国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸、説明板、遺構説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2002/02/11
2012/01/09

歴史等

小早川氏の祖、土肥実平・遠平父子は、源頼朝の平氏追悼に当って終始勲功をたて、はじめ備前・備中・備後の三国の守護の地位を与えられたが、安芸国沼田荘(沼田川流域一帯、蓮華王院領)の地頭職を得ると一族をあげて相模国から西遷してきた。
鎌倉・室町時代を通して小早川氏が本拠とした山城は、沼田川対岸の妻高山城 (高山城)であったが、竹原小早川家を継ぎ、次いで沼田小早川家をも継いだ小早川隆景は、これまで妻高山城(高山城)の副塁であった新高山城の大改修を行い、天文21年(1551)にここに本拠を移した。以来、慶長元年(1596)に三原城に移るまでの45年間、この高山城が小早川氏の本拠となった。
この城郭は、標高197.6mの高山(新高山)の天険を利用した山城で、東西400m、南北500mの全山を城塞としている。山頂尾根を削平した本丸・二の丸・三の丸など各種の曲輪は60余に及ぶ広大なもので、城主や家臣の居館を山上にあげた中世山城から近世の城郭への過渡期を示す新型の城郭である。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

沼田川を挟んで東に妻高山城、西に新高山城がある。どちらも同じくらいの高さの双子のような山だ。
山麓から見上げると、山頂部は岩肌が剥き出しの絶壁の山なので、城域は狭いように見えるが、奥が深い山で、私の知る限り、一、二を争う広大な城域を持つ城である。
遺構もほぼ完存し、60余にも及ぶという曲輪の多くは非常に広く、それらを築くために削り取った高い切岸は見事なもので、見応え充分だ。
釣井の段(井戸郭)に残る、6つの大規模な石積井戸も見応えがある。
本丸の東の「詰の丸」は、巨岩(一部、磨崖仏もある)が露出して異様な光景だが、往時はこの上に櫓が建てられていたようで、近世城郭の天守台にあたるというが、インパクト絶大だ。
また、三原城の築城、さらにはその後の修築の際に、当城の石垣の大石の全てを移動したと伝えられるが、釣井の段(井戸郭)や本丸をはじめ、所々に石垣も残っている。
この他にも、見どころはたっぷりで、私の満足度は勿論★★★★★だ(*^_^*)。
沼田川を挟んてすぐ近くに対峙する2つの城(新高山城と妻高山城)は、中世城郭ファンにはたまらないですね(*^_^*)。
(2012/01/09登城して)

ギャラリー

新高山城縄張図(現地説明板より)
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【登城記】
左が
妻高山城、右が新高山城
妻高山城と新高山城は、どちらも同じくらいの高さの双子のような山で、沼田川を挟んで並び立っている。この写真は、両城址の北側(県道33号線沿い)から撮ったものである。
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新高山城全景
沼田川にそって通る県道33号線を通ると、山麓に大きな「新高山城跡」の看板が見える。
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登城口から新高山城を望む
山麓から見上げると、山頂部は岩肌が剥き出しの絶壁の山だ。登城道は、それほど急坂でもないのだが、この岩山を見て、同行したMっさんは、その前に登った妻高山城が中腹から登ったにもかかわらず、朝一だったせいもあり、意外ときつかったらしくドッキリ(笑)。
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段曲輪
登城口から、大きな説明板のある前を通り、途中、出丸のような独立した曲輪「鐘の段」への案内板を左手に見ながら10分ほど登ってくると、右手に段曲輪が。
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番所跡(中の段)
段曲輪は「軽石の段」、「中の段」、「下の段」の3曲輪からなり、大手道を警固する番所が設けられていた。写真は「中の段」で、周囲に土塁が確認できる。
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堀切
番所から少し登ると、右手に匡真寺跡の東側の堀切が見えてくる。匡真寺の土壇には一部石垣(写真左)が残っている。堀切の中に入って行くと、大きな岩が2個。平成13年(2001)の芸予地震の際に、50m上にある中の丸から落ちてきたものだそうだ。
 
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匡真寺跡
小早川氏の菩提寺で、隆景は亡父毛利元就の七回忌と亡母妙玖尼の三十三回忌に際して、ここに匡真寺(現在、三原市宗光寺)を建立し、法会を盛大に営んだ。寺跡は、東西41m、南北72mに及ぶ広大なもので、前面に瓦片が散乱し、築庭を思わせる湧水池・築地塀の跡などが残っている。
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中の丸への石段(門跡)
匡真寺から、さらに少し登って行くと、高台(中の丸)へ登る石段があり、門跡とされる。いよいよ、主郭部へ入って行くことになる。
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【二の丸】
本丸の北方に4段の曲輪からなる「東の丸」、「井戸曲輪」、5段の曲輪からなる「中の丸」、西方にも4段の「中の丸」の各曲輪が配置され、これらが「二の丸」の縄張りである。
中の丸
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中の丸西端の櫓台?
中の丸の西端に高台があるが、櫓台だろうか?ちょっとした建物が建てられるほどの広さがある。
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【本丸】
本丸の石垣とその崩れた石
中の丸の東の方に本丸がある。本丸下には大きな石が散乱しているが、よく見ると、一部石垣が残っているのが確認できる。
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本丸
本丸は4段からなり、東西125mに及ぶ広大な曲輪で、居館の跡と思われる礎石が確認される。
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大手門跡
本丸の南西隅には外枡形の大手門跡が残っている。
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詰の丸
「詰の丸」は、巨岩(一部、磨崖仏もある)が露出して異様な光景だが、往時はこの上に櫓が建てられていたようで、近世城郭の天守台にあたるというが、インパクト絶大だ。
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詰の丸から妻高山城を
「詰の丸」からは、沼田川対岸にある「妻高山城」がよく見える。勿論、眺望もいいが、午前中の登城だったので逆光で写真が撮り辛かった。
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【二の丸】
ライゲンガ丸
本丸の北東下には「ライゲンガ丸」、「東の丸」があり、その西側にある「釣井の段(井戸曲輪)」とは低い石塁で区画されている。石塁の右側が「ライゲンガ丸」で、その奥に「東の丸」がある。ところで、「ライゲンガ」の意味と、それに充てる漢字が分かる人いないでしょうか?
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釣井の段(井戸曲輪)
釣井の段(井戸曲輪)は上下2段からなり、東西、南北ともに50m余という城内最大の曲輪で、上段に4ヶ所、下段に2ヶ所の円形石積み井戸が残っている。一緒に登城したMっさんに上段に立ってもらい、下段から撮ったこの写真でも、広大な釣井の段(井戸曲輪)を築くために削り取った正面の「本丸」と右横の「本丸北西の中の丸」の高い切岸の凄さが分かるのでは?
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釣井の段から本丸への虎口付近に残る石垣の一部
新高山城は、三原城築城の際などに石垣の大石の全てが移動されたと伝わるが、城内の所々には石垣の一部が残っている。特に、釣井の段(井戸曲輪)周辺には多く残っているが、中でも、本丸へ向かう虎口周辺の石垣(TOP写真も参照)が一番はっきりと残っている。
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虎口上から井戸を
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井戸
釣井の段に残る6ヶ所の井戸跡は、石積みもしっかり残り、今なお、清水を湛えたものもある。
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本丸北西の中の丸から釣井の段(井戸曲輪)を
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本丸北西の中の丸への虎口と土塁
本丸と北西の中の丸(本丸西の中の丸ではない)の間には堀切のような堀底道があり、土塁が設けられ、西端の虎口には石垣が一部残っている。
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本丸北西の中の丸
写真は中の丸の北端から撮ったもの。ここには、礎石の一部が見られ、大規模な建物があったのが知られる。
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【三の丸】
中の丸の西方に配置された4段が西の丸で、これからさらに北西に延びる北の丸の5曲輪が連なっている。これらが三の丸の縄張りである。
石弓の段から西の丸を
説明板によると、「西の丸の東端の曲輪は石弓場と呼ばれるが、それ自体が二の丸を守る箱薬研の堀切の役割を果たしている。」とあったが、堀切の役割を果たすには広すぎるような気がするが・・・?
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二の丸西端の櫓台?と石弓の段の間の堀切
石弓の段の東端には堀切が認められる。
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西の丸
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北の丸
西の丸から北西へ北の丸が延びているとのことで、藪を漕ぎ分けて入って行くと、方形基壇が確認できる。一部(壇上)は、藪が刈り取られてはいたが・・・。
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【鐘の段】
城山の南西斜面中腹に半独立的な小丘をなした曲輪である。鐘の段は、北に二郭を設け、東側に大小2郭(腰郭)、南西に3段の郭を配置している。これらの郭は、地形や縄張りなどからみて中世初期の独立した山城(丘城)の形態をなし、築城年代は古いと思われる。
二郭
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鐘の段
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東下の腰郭
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コメント

伊藤 正宏(2007/09/16)

前略失礼致します。
小生は山口県の住人です。小生も2年前に新高山城に登りました。
仕事柄、同城の側を流れる沼田川に沿った道を月数回通っていますので、いつも見上げておりましたが、我慢出来なくなり登りました。
お寺跡の郭辺りから、多数の大石が目に付きます。
昭和に入ってからの地震で山頂辺り(本丸?)から転げて落ちてきたそうです。
本丸西側の中の丸入り口には、神社にあるような石段が10段ばかりあって、なんだか奇異に思ったものです。後世の人が造ったのでしょうか?
本丸北側の井戸郭には多数の石塁や土塁、礎石らしきものが残っており、非常に嬉しかったことを覚えております。
この10月に新高山城で山城サミットがあるとのこと、都合が付けば参加したいと思っております。

タクジロー(2007/09/16)

伊藤様
情報ありがとうございます。
中国地方には、いい山城がいっぱいあっていいですよね。
10月の山城サミット、私も出来れば参加したいものです。
今度、行く時には、両高山城に登り、じっくりと廻りたいと思っております。
また、いろいろ教えて下さい。

戦国山城大好き(2013/06/30)

行って来ました。
城跡の全体を見て
覚悟を決めていざ山登り
行く途中に曲輪、番所等あり
見応え十分(^^)
知らん間に寺院跡
そして中之丸
本丸に登り頂上へ、対岸の妻高山城跡が見えました。
それにしても城跡が広い
思ったよりも登りやすかった

タクジロー(2013/07/07)

戦国山城大好き様
新高山城跡は、規模も大きく、見応え充分ですね。
妻高山城跡へも行かれたのでしょうか?妻高山城も、なかなか見応えのある城跡でした。

本郷の子(2016/12/09)

昔(小学校時代)学年全員で新高山へ竹を取りに行きました、先生から、マムシが多い所なのでみんな棒を持ってくるようにとの事で竹の棒で武装して行きました。(中学校時代)友達から土器があるとの話を聞き、そこ(山頂付近北側)に案内してもらって沢山の無傷の皿を掘って持ち帰りました。(大学生時代)同じところに行きましたが、もう欠けた皿もなにもありませんでしたが、途中の土にのぞいていた天目茶碗のかけらを拾って帰りました。半世紀前のことです。

タクジロー(2016/12/09)

本郷の子さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
マムシが多いとは知りませんでした。藪の中へ入って行くと多いのでしょうかねえ。
天目茶碗は小早川家時代のものでしょうね。貴重ですね。
これからも時々、当サイトへのご訪問とコメントを宜しくお願い致します。

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