長門 萩城(萩市)

水を満々と湛えた堀の外側から城址を(左が天守台、右上の山は詰の城)

関が原合戦に敗れた後の、毛利氏13代255年の居城

別名

指月城(しづきじょう)

所在地

山口県萩市堀内

形状

平城(海城)&山城

現状・遺構等

現状 :指月公園
遺構等:【山城】山上の詰の丸に櫓台、石垣、土塁、
【平城】天守台、堀、石垣、曲輪跡、松本川河口に藩の御船蔵、石碑、説明板など

満足度

★★★★

訪問日

1995/08/12
2003/11/01

歴史等

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で敗れた西軍の総帥毛利輝元は、中国地方9ヶ国120万石から、周防・長門2ヶ国36万9千石に削封され、せっかく新たな本城として築いた広島城を去り、新たな居城を築かねばならなかった。
輝元が選んだ候補地は、
①瀬戸内海に面した防府
②戦国期の大内氏の本拠で領地の中心にあたる山口
③日本海に面した萩
の3ヶ所であった。
当時は、新城築城にあたっては候補を3つ選び、家康の決裁を仰がねばならなかったのである。家康は、その中で最も辺鄙な萩を選んだ。
輝元は、慶長9年(1604)新城の着工をし、同13年(1608)に完成した。萩は要害堅固な場所であった。日本海に浮かぶ標高143mの指月山は砂州によって地続きになっており、砂州を取り囲むように2つの川が分かれて日本海に注いでいた。城下町はこの砂州上に築かれ、城下町全体が川と海を天然の堀とした総構えになっていた。また、指月山の手前に堀を掘って城下町とも分離し、山麓に本丸以下の主要部を置き、山上に有事の際の詰の城を築いた。萩は辺鄙な所ではあるものの、守りの観点からすれば最適地であったのかもしれない。
幕末期、毛利藩は倒幕に向かうが、さすがにそれには萩は不便である。そのため文久3年(1863)、藩主・毛利敬親は藩庁を勝手に山口に移したが、それまで毛利氏が13代、255年在城した。
明治7年(1874)廃城令により、天守・櫓などの建物を悉く破却した。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「日本の百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

萩と云えば、近代日本の夜明けの幕を開いた、幕末・明治維新の英雄達の故郷である。
旧城下町は往時の面影が残り、また松下村塾や高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文等々、そうそうたる顔ぶれの旧宅等が残っている。
松蔭神社の境内には、国指定史跡として保存されている粗末な小屋の「松下村塾」がある。ここで、高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・山県有朋等が机を並べていたのかと感慨にふける。近くには、伊藤博文の旧宅もあり、上士の高杉晋作や桂小五郎の旧宅はもっと城の近くにある。この辺りは、往時の城下町の雰囲気がよく残り、その近くには、藩校・明倫館跡がある。
また、松下村塾発祥の地(玉木文之進旧宅)から坂をのぼってきたところには吉田松陰誕生の地である松陰の実家「萩藩士杉家の旧宅地」があり、「松陰と金子重輔の銅像」や「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」が建立され、また松陰の墓碑のほか、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もあるが、この付近は「団子岩」と総称され、ここからは萩城下が一望できる。
尚、萩市内には、長州藩の奇数藩主が眠る「東光寺」と偶数藩主が眠る「大照院」があるが、どちらも、各藩主の墓石の大きいのに驚いた。また、墓所内の石灯籠はお盆の迎え火・送り火の万灯会の準備が整っていた。これらの灯篭に灯がついたら本当に幻想的な世界が現れるのであろう。

萩城址は、日本海に突き出た丘にある。三方を海に囲まれた標高143mの山上には本丸・二の丸を置いて詰の城とし、通常居住していた山麓の城には本丸・二の丸・三の丸があり、堀には海水を引いている。本丸内門前から堀越しに、左手には天守台が見え、奥には詰の城の指月山が見える。
内門を入ると、平城部分の本丸跡があるが、薩長政権の明治新政府の城郭破却令を率先実行し、全国に先駆けていち早く取り壊し、現存の建物は勿論、他の建物も少ないせいか、だだっ広いという印象が残っているだけだ。
しかし、石垣等の遺構は比較的よく残っており、しかも、なかなか立派な石垣が多い。
山城に非常に愛着を持ち、しかも、すぐ裏山が詰の山城の指月山であるにも関わらず、今回は時間がなく、登城することが出来なかったのが、今もって悔いが残る。絶対に再登城すると心に誓っているが・・・。
(1995/08/12登城して)

ギャラリー

本丸堀越しに本丸南面の石垣と虎口を(背後は詰城の指月山)
水を満々と湛える本丸南側の堀に架かる石橋を渡り、写真中央の虎口(内門跡)を入ると本丸跡である。尚、当石橋は、往時は木橋だったようだ。
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天守台
本丸を取り囲む石垣の南西角に天守台がある。
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【萩・城下町】
松下村塾(松陰神社境内に) 
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高杉晋作旧宅
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木戸孝充(桂小五郎)旧宅
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松下村塾発祥の地(玉木文之進旧宅)
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明倫館跡(現明倫小学校)
写真右手前は明倫館南門。
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有備館
旧明倫館の剣術場と槍術場を移転して拡張したもので、木造桟瓦葺き。藩士の練武のほか、他国からの修行者の試合場ともなり、土佐の坂本龍馬もここで試合をしたといわれている。
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【東光寺】
毛利家奇数代の藩主の墓がある。非常に大きな墓が並んでいる。多くの石灯籠があり、お盆の万灯会ではそれらにローソクの灯が灯され幻想的な世界が現れる。 
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【大照院】
毛利家偶数代の藩主の墓がある。多くの石灯籠があり、お盆の万灯会ではそれらにローソクの灯が灯され幻想的な世界が現れる。
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【吉田松陰誕生の地】
吉田松陰誕生の地から萩市街を見下ろす

松下村塾発祥の地(玉木文之進旧宅)から坂をのぼってきたところには吉田松陰誕生の地である松陰の実家「萩藩士杉家の旧宅地」があった。この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な所である。左の丸い山が萩城詰城の指月山。
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吉田松陰と金子重輔の銅像
松陰誕生の地には、「松陰と金子重輔(松陰の弟子で、松陰が下田沖の黒船に乗り込んで密航しようとしたときに行動をともにした)の銅像」が建立されている。
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高杉晋作草庵跡地顕彰碑
「松陰と金子重輔の銅像」の向かいには「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」が建立されている。文久3年(1863)の八月十八日の政変で長州藩は京都を追われた。これに対し、高杉晋作は脱藩して京都に潜伏するが、その後、長州へ戻ると脱藩罪で野山獄に投獄された。ここは、出獄後に東行と名乗り謹慎してしばらく住んでいた所である。
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松陰及び松陰一族と高杉晋作など門人の墓
松陰誕生の地には松陰の墓碑のほか、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もある。
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コメント

戦国山城大好き(2013/03/16)

行ってきました(^-^)v
山上は行けなかったけど(T-T)
帰り近くの毛利屋敷に行きました
長屋の部屋を見て回ると
ここで三本の矢の話をしたと解説が
あった
えー嘘、吉田郡山にも同じ三本の矢の話をした場所が在るで
どっちが本当か悩んだ(^_^;)

タクジロー(2013/03/19)

戦国山城大好き
「三本の矢の話」は、存在そのものも疑問があるようですが、まあ、伝えられた話ですから、しょうがないのかもしれないですね。。
萩城の詰城は、私も、まだ登城していないので、いつかは登りたいと思っております。

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