伊予 宇和島城(宇和島市)

重厚感のある独立式層塔型三層三階の現存天守

築城の名人藤堂高虎の縄張り、伊達家が歴代居城、現存天守が残る城

別名

板島丸串城(或いは板島城とも、丸串城とも)、鶴島城

所在地

愛媛県宇和島市丸ノ内1丁目

形状

平山城(標高80m)

現状・遺構

現状:城山公園 【国指定史跡】
遺構等:現存天守閣、現存上り立ち門、移築武家屋敷長屋門、曲輪、土塁、石垣、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★★

歴史等

この城山に初めて築城された年代は明らかではないが、天慶4年(941)橘遠保が宇和地方の豪族となり、嘉禎2年(1236)には西園寺公経の所領となった。戦国時代の天文15年(1546)には家藤監物の居城となって、「板島丸串城」と言われていた。天正3年(1575)には、西園寺宣久が居城となった。
秀吉の四国討伐後、天正13年(1585)には小早川隆景の所領となり、城代が置かれた。天正15年(1587)には大洲城主戸田勝隆の支城となった。この頃までは、番城にすぎなかったと思われる。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられるに及んで、翌慶長元年(1596)から慶長6年(1601)までかけて、城堀を掘り、石垣を築き、四層天守の他、数十の矢倉を構えた城郭に築きあげた。後に、高虎は築城の名人として名を馳せるが、宇和島城は、高虎の初期の傑作といえるであろう。
同13年(1608)高虎が今治に転封になり、同年冨田信高が伊勢津より10万石で入封したが、同18年(1613)には改易となり、約1年間幕府の直轄地となった。
同19年(1614)には奥州仙台の藩主伊達政宗の長子秀宗(庶子であり、秀吉の猶子となっていた為、宗家は嫡男の次男忠宗が継いだ)が宇和10万石を賜り、元和元年(1615)に入城し、それ以降伊達氏歴代の居城となった。
2代宗利の時、寛文4年(1664)から天守以下城郭の大修理を行い、同11年(1671)に至って完成した。現在の天守は、望楼式四重であった高虎の天守を、その時に独立式層塔型三層三階・本瓦葺・白漆喰総塗篭にして再建したものである。この頃になると、戦乱の時代からは遠ざかり、城郭の持つ軍事的な意味合いは薄められ、権威の象徴としての一面が強調されつつあった。そのため、宇和島城の天守閣には、石落としや狭間が設けられず、装飾性が強調された外観となっている。
『「宇和島市教育委員会パンフレット」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

宇和島城は、今では独立丘陵に築かれた城になっているが、藤堂高虎が築城した当時は、城の北と西側は宇和島湾に面し、堀は海水を引き入れた海城であると共に、標高80mの山頂に本丸を築いた平山城であったそうである。
宇和島城へは、搦手口にある「上り立ち門(現存)」と「移築武家屋敷長屋門」からの2つの登城口があり、そのどちらの道から登城しても往時の風情が残っている。なお、大手門(今回は行けなかった)は、昭和20年に戦災で焼失したが石垣が残るとのことであるが、登城道は無いとのことである。
天守(現存)は小さいが、古風で落ち着いた感じがする。正面最上層屋根に唐破風、二層屋根上に大型の千鳥破風、その下の屋根に2つの千鳥破風が並び、最下層玄関に大型の唐破風が付いている。天守台は3.7mと低いが、切込ハギで築かれ、玄関への石段と式台が立派である。本丸跡や二の丸跡等には、多くの櫓が建っていたらしく、櫓の礎石群がいくつも残っている。
天守上からの眺望は春靄で霞んではいたが素晴らしく、正面には宇和島湾の複雑な入り江や島々が見える。そして、他の方角は高い山々で囲まれており、城だけでなく宇和島の地そのものが要害の地であるのがよく分かる。尤も、この地形は他国との交流を阻み、現在では発展の阻害にもなっている。
この景色を見て、「このような地形にありながら、幕末の四賢侯とうたわれた8代藩主宗城は、新しい文化等を積極的に取り入れ、幕末の宇和島藩は日本の中でも学問をはじめ文化の非常に進んだ藩であったのには驚くばかりだ。」と想いを巡らした。
(2007/05/02登城して)

ギャラリー

宇和島城址イメージ図(説明板より)
宇和島城鳥瞰図

【登城道Ⅰ】(移築武家屋敷長屋門から)
藩老桑折氏武家長屋門(移築)
昭和27年、ここに移築する際、左方の長屋の大部分を切り取ってしまったとのこと。
長屋門

往時の風情がよく残る登城道(右の石垣は井戸丸の矢倉台)
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途中に井戸跡が
城山に残っている井戸のうち、最も重要視されたもので、ここを井戸丸といい、井戸御門・井戸矢倉などがあった。井戸は直径2.4m、周囲8.5m、深さ11mある。
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さらに登って行き、二の丸へ
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【登城道Ⅱ】(上り立ち門から)
上り立ち門(現存)
この門は搦め手口から登城する上り口に位置している。往時は、通常ここから登城したとのことである。
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この登城道も往時の風情がよく残っている
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長門丸から藤兵衛丸への石段と石垣 ~クリックにて拡大画面に~
途中、長門丸へ、そして藤兵衛丸へ向かう。ここのアングルからの光景も非常に良かった。左上の建物は藤兵衛丸へ移築された山里倉庫である。
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藤兵衛丸矢倉跡
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山里倉庫(移築)
伊達家8代宗城の時に建造されたもので、旧幕時代、城内の調練場の一廓にあり、武器庫に使用されていた。今は、郷土資料館になっている。
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【二の丸から本丸へ】
二の丸跡から見る天守閣と本丸への石段 ~クリックにて拡大画面に~
ここから眺める、本丸石垣と本丸への石段、そして左上に天守台の光景もなかなか良かった。
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本丸に残る櫓等の礎石
本丸や二の丸等には多くの櫓が建っていたようで、櫓の礎石が幾つも残っている。
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本丸に残る井戸 
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天守(現存)
現存天守は、小さいながらも、古風で落ち着いた感じがする。正面最上層屋根に唐破風、二層屋根上に大型の千鳥破風、その下の屋根に2つの千鳥破風が並び、最下層玄関に大型の唐破風が付いている。天守台は3.7mと低いが、切込ハギで築かれ、玄関への石段と式台が立派である。
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天守模型(天守内に展示)
縮尺10分の1、万延元年の作、作者不詳
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天守上から本丸と二の丸を見下ろす
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天守上からの眺望Ⅰ ~クリックにて拡大画面に~
天守上からの眺望は、春靄で多少霞んではいるものの素晴らしく、正面には宇和島湾の複雑な入り江や島々が見える。
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天守上からの眺望Ⅱ ~クリックにて拡大画面に~
他の方角は、高い山々で囲まれており、城だけでなく、宇和島の地そのものが要害の地であるのがよく分かる。尤も、この地形は他国との交流を阻み、発展の阻害にもなっている。
この景色を見て、「このような、地形にありながら、幕末の四賢侯とうたわれた8代藩主宗城は、新しい文化等を積極的に取り入れ、幕末の宇和島藩は日本の中でも学問をはじめ文化の非常に進んだ藩であったのには驚くばかりだ。」と想いを巡らした。

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宇和島城遠景
下城したのは、夕方になり、ますます靄がひどくなり、おまけに逆光。この写真が精一杯だった。
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