小倉城天守閣
細川忠興が南蛮式天守の城を築き、その後小笠原氏が明治を迎える
別名
勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城
所在地
福岡県北九州市小倉北区城内、勝山公園
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 勝山公園、八坂神社、市街地
【遺構等】 復興天守、模擬櫓(多聞櫓・付櫓・月見櫓)、曲輪、本丸・松の丸・北の丸の石垣と掘(現存)、復元庭園と下屋敷、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/11/13
歴史等
小倉城は関門海峡を押さえる九州の咽喉部にあたり、紫川の河口にある交通上の拠点であり、要衝の地にあり、既に、奈良時代に軍事的要衝の地として軍団が置かれていた。
室町時代以降は、大友氏・大内氏・少弐氏による合戦が入り乱れて展開されていた。そして、文明10年(1478)には大内政弘が豊前国をほぼ掌握し、やがて筑前国も平定するに至った。
その後も、大友氏と毛利氏との抗争が重ねられたが、永禄13年(1570)高橋鑑種が小倉城を居城とした。その居城は、現在の小倉城本丸付近にあったらしい。
天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐によって、高橋鑑種が日向国へ移封となった後、毛利勝信が豊前の企救・田川両郡に6万石を与えられて入城し、勝信は小倉城を改修して、本丸・北の丸・松の丸などを築いた。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、勝信は西軍に付いたため所領を没収され土佐配流となった。
毛利氏改易の後を受けて、細川忠興が丹後田辺城から豊前1国と豊後2郡合計39万9千石を領して入封した。忠興は当初、中津城へ入り、弟興元を小倉城に置いたが、興元が兄と対立して出奔すると、慶長7年(1602)正月から11月にかけて小倉城を大改修して居城とした。以後、小倉城は小倉藩の本城となる。
異彩を放っていたのは5層6階の天守閣である。この天守は屋根に破風を付けず、4・5階を画す部分には屋根がなく四方白壁のままという独特なもので「唐造り」或いは「南蛮造り」と呼ばれる。
細川氏は、忠興の次の忠利が、寛永9年(1632)10月、肥後熊本城主加藤忠広の改易に伴い、熊本54万石に加増・転封となり、小倉城には播磨明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が入り15万石を領した。
以後、小笠原小倉藩は九州の重鎮として幕府の信任も厚く明治維新まで10代二百数十年君臨した。
第二次長州征討戦の慶応2年(1866)8月1日、小倉藩は田川郡に撤退する際に小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰燼に帰した。なお天守閣は、天保8年(1837)の火災で焼失、以後再建されなかった。
現在の天守は、昭和34年(1959)10月に再建されたもので、4層5階のコンクリート造りで、しっかり屋根も破風も付けられている。
『「日本の名城古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本城郭大系18」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
往時の小倉城は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸を中心とし、これを囲むようにして二ノ丸、三ノ丸を配し、5層6階の天守(現在に天守は4層5階)のほか、平櫓117、二階櫓16、門櫓12を持つ壮大なものであったという。
そして、天守の高さは約23mで、天守閣の土台となる天守台の上面の広さに至っては、15間(約29・6メートル)×13間(約25・6メートル)で、熊本城(13間×12間)を上回り、佐賀城(15間×13間)と同じほどで九州では最も広いという(2012/11/14付 西日本新聞朝刊参照)。
残念ながら、幕末に、全ての建物が焼失し、現在、天守閣をはじめ幾つかの櫓が再建されたが、天守閣は往時のものとは随分違うのが残念だ。
しかし、主郭部(本丸・松の丸・北の丸)の壮大な石垣と堀や、随所に残る枡形虎口の石垣が往時を偲ばせてくれる。
(2012/11/13登城して)
ギャラリー
小倉城主郭部縄張略図(現地説明板より)
小倉城は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸を中心とし、これを囲むようにして二ノ丸、三ノ丸を配し、5層6階の天守(現在に天守は4層5階)のほか、平櫓117、二階櫓16、門櫓12を持つ壮大なものであったという。
【天守閣】
往時の天守閣は、5層6階で、高さは約23m、天守閣の土台となる天守台の上面の広さに至っては、15間(約29・6メートル)×13間(約25・6メートル)で、熊本城(13間×12間)を上回り、佐賀城(15間×13間)と同じほどで九州では最も広かった。
月見櫓
天守閣の西の方には三層の月見櫓が復興されているが、天守閣を復興のときに、天守と釣り合うようにと、本来あった二の丸でなく多聞口門脇に建てられたそうだ。当写真は、多聞口門手前北の丸側から撮ったもの。
松の丸
松の丸は、本丸の南側の一段下がったところにある。写真奥やや右の石段は本丸へ向かう鉄門跡。
【門・虎口】
西ノ口門跡
小倉城の駐車場(勝山公園駐車場)は、勝山公園の東側にあり、そこに駐車し、右手に松本清張記念館、左手に水堀を見て通るのがこの門で、松の丸の北西隅へ入城することになる。
鉄門
松の丸から本丸への入る門で、枡形虎口にはなっていない。
槻門(けやきもん)枡形虎口
鉄門から本丸へ入り、天守の方へ向かって歩いて行くと、右手に槻門跡の枡形虎口が見えてくる。写真奥が大手門跡の枡形虎口である。
多聞口門跡・枡形虎口
北の丸から本丸へ入る門である。右奥に見える三重櫓は月見櫓。
【堀と石垣】
小倉城は、第二次長州征討戦で撤退する際に城に火を放って逃げ、城内の建物がことごとく灰燼に帰したため、現存建築物は全く残っていないが、主郭部(本丸・松の丸・北の丸)の壮大な石垣と堀が往時を偲ばせてくれる。
西ノ口門跡手前北側の堀