鯱の門と続櫓
龍造寺氏の村中城を、鍋島直茂が大修築、鍋島家11代257年の本拠
別名
古名は佐嘉城
別名は、沈み城、亀甲城、栄城など
所在地
佐賀県佐賀市城内2丁目18−1(佐賀城公園)
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 佐賀城公園(公園内に佐賀県立佐賀城本丸歴史館が建つ)、官庁街等
【遺構等】 鯱の門と続櫓(現存)、本丸御殿(復元)、天守台、本丸石垣、堀(北・西・南の大部分が残り、東堀は埋め立てられた)、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/02/15
2012/11/12
歴史等
佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものである。
九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年 (1584)に島原の沖田畷の戦いにて島津・有馬連合軍に敗れ自刃した。
同15年(1587)に豊臣秀吉の九州平定後、隆信の嫡男・政家が肥前1国35万7千石を安堵されたが、同18年(1590)に政家は病気を理由に重臣鍋島直茂に譲って隠退した。
直茂は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に与したため、危機に見舞われたが、柳川城主立花宗茂討伐の功により領地を安堵された。尚、慶長12年(1607)までは、主家龍造寺政家・高房が存命で、名目的には龍造寺氏の居城であったため、鍋島直茂は蓮池城を本拠としていた。
慶長12年(1607)9月6日、隆信の孫高房は所領を奪われた憤怒のため、22歳の若さで自刃し、高房の父政家も落胆のあまり同年10月2日に没した。以来、竜造寺氏の遺臣が佐賀城下に出没し治安を乱した。このため直茂も高房の非業の死に心を痛めたのか、城下に天祐寺を建立し、その霊を慰めた。これが、幕末に劇化された「化け猫騒動」の背景である。
直茂の嫡男勝茂は、慶長15年(1610)に襲封し、同18年(1613)に徳川幕府2代将軍秀忠に35万7千石の朱印状を与えられ、ここに鍋島氏は名実ともに肥前国主の地位を承認された。
佐賀城は、慶長7年(1602)、本丸の建築にはじまり、慶長16年(1611) まで10年の歳月を費して完成した。内堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、5層の天守(4層だった可能性が高いとも)も建造された。そして、 元和元年(1615)の一国一城令でかつての居城蓮池城は破却された。
佐賀城は江戸期、数度火災に見舞われた。享保11年 (1726)の火災では天守閣をはじめとし、本丸を焼失した。天保6年(1835)の失火では二の丸を全焼、この後、二の丸の再建とともに、本丸の建設も始まったが、天守閣は復元されなかった。唯一の建造物遺構「鯱の門」はこのとき、本丸出入りの門として建てられたもので天保9年(1838) に完成した。
明治7年(1874)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城はこの反乱軍に一時占拠された。この戦闘の際に建造物の大半を失った。 なお、鯱の門には当時の弾痕が現在も生々しく残っている。
佐賀鍋島氏は、初代藩主を直茂の嫡男勝茂として、11代257年続いて明治に至った。
『「佐賀城印刷物」、「藩と城下町の事典(東京堂出版)」他参照』
現況・登城記・感想等
佐賀城は、遺構はそれほど多くは残っていないが、幅の広い水堀が見事だ(80mあるらしい)。まさに、「これがお城のお堀だ」 といった感じである。
そして、建造物の唯一の遺構である「鯱の門とその続櫓」は大きくて姿形も良く、また、その続櫓の切込みハギの石垣が色彩も含めて素晴らしい。往時の佐賀城の壮大さを見る思いである。
また、本丸一帯の発掘調査が行われていたが、本丸御殿の復元が計画されているようだ。その後、どうなっているのか、再登城して見てみたいものである。
(2002/02/15登城して)
10年9ヶ月ぶりの登城だ。相変わらず、佐賀城全域を取り囲む水堀のうち、現存する満々と水を湛えた幅の広い南堀と西堀は見事です。勿論、建造物の唯一の遺構である「鯱の門とその続櫓」も何度見ても素晴らしい。
一方、本丸は、前回の登城時とは、すっかり様変わりしていて、本丸西側の石垣や土塁、堀(水は入っていなかった)が綺麗に復元され、また、本丸内には豪壮な本丸御殿が復元されていた。
平成5・6年度に発掘調査が行われ、本丸を区画する石垣や土塁の他、「佐賀城御本丸差図」とほぼ一致する建物の礎石が見つかり、それをもとに本丸遺構を保存しながら、平成16年(2004)に10代藩主鍋島直正が再建した天保期(1838完成)の本丸御殿の一部を復元し、本丸歴史館として活用しているのだという。
また、2013年頃には、本丸東堀も復元されるようだ。
天守閣については、2011年9月から発掘調査(3ヶ年計画)が始まったばかりのようだが、将来的には復元されるようで楽しみだ。発掘調査の結果、佐賀城天守閣は、土台となる天守台の上面の広さが、南北約29.6m、東西約25.6mあり、熊本城を上回り、小倉城と同じくらいであったという。天守が復元されたら、再登城したいものだ。
(2012/11/12登城して)
ギャラリー
佐賀城縄張図(現地説明板より)
当絵図は、慶長19年(1614)頃作成の「佐嘉小城内絵図」で、創建当時の佐嘉城の様子が描かれている。従って、当時、本丸に入る門は描かれているが、現存する「鯱の門」ではない。
【登城】
二の丸跡から眺める「鯱の門続櫓」と「天守台」
本丸の北側の二の丸跡にある駐車場へ車を停めて、佐賀城公園へ向かうと、左側に鯱の門の側面(続櫓)と天守台の石垣が見えてくる。
天守台
まずは、二の丸側から天守台を撮影。なかなか立派な天守台です。
天守台への虎口
天守台へは、二の丸から登ることができます。ところが、この天守台、何と本丸からは登ることができない不思議な構造なのですw(*゚o゚*)w。
天守台上にて
前回(2002/02/15)の登城時には、天守台上には、明治時代の建造物「協和館」が建ち、サークル活動等に利用されていたが、解体され、現在は発掘調査中で、天守閣が復元されるそうです。
天守台脇から本丸を
前回(2002/02/15)の登城時には、本丸は発掘調査中でしたが、本丸御殿や本丸西側の石塁、堀などが復元されて、すっかり様変わりしていました。
本丸南側の水堀
堀幅は80mもあるそうです。見事なものです。
三の丸南側の水堀
佐賀城全域をめぐる水堀は、東側は、ほとんど埋め立てられているが、南・西・北の水堀は今なお良好に残っている。中でも、南と西側の水堀は幅も広く見事な水堀で、まさしく「これぞ、お城の堀」といった感じです。尚、2013年頃には、本丸東堀も復元されるようです。
【本丸内】
本丸御殿
平成5・6年度に発掘調査が行われ、本丸を区画する石垣や土塁の他、「佐賀城御本丸差図」とほぼ一致する建物の礎石が見つかり、それをもとに本丸遺構を保存しながら、平成16年(2004)に10代藩主鍋島直正が再建した天保期(1838完成)の本丸御殿の一部を復元し、本丸歴史館として活用している。
本丸御殿表玄関
入館しようと思ったら、な・な~んと、11月6日から19日まで、維持補修工事のため、臨時休館だと~ヽ(`⌒´)ノ!(;>_<;)
石製水路
本丸西側の土塁石垣の下から、本丸の内部と外部を結ぶ木製と石製の水路が1つずつ、合計2ヶ所見つかった。この場所は石製水路の本丸側開口部で、ここから本丸内部へ向かって赤石の水路が延びている。本丸内に飲み水などを運ぶ施設であったと思われるそうです。
南西隅櫓台上から本丸御殿を
左に延びているのは、本丸西側の石塁で、左奥には天守台石垣が見える