復元完了した二ノ城戸
白村江の戦で大敗し、唐・新羅の来攻に備え築かれた最前線の朝鮮式山城
読み方
かなたのき、かねたのき、かねだのき、かねだじょう
所在地
長崎県対馬市美津島町黒瀬、箕形
【アクセス】
対馬空港から国道382号線を南下(厳原方面からは国道382号線を北上)し、十八銀行のある交差点(信号有り)から県道24号線へ入り、6~7kmほど西進すると右手に「城山入口」と書かれた案内板と「金田城跡」の石碑が立っています。その脇の林道(セメント舗装→未舗装)へ入り1.8kmほど進むと登山口へ出ます。登山口には3台ほど駐車可能です。
(城山入口に立つ案内板と城址碑)
写真右奥が登山口に至る林道です。
所要時間
登山口から山頂まで約50分、見学総時間は3時間40分
登山道は整備されていて歩きやすいが、二ノ城戸と三ノ城戸を直接結ぶルートは薮で道が分かり辛く迷いやすいので避け、二ノ城戸→防人住居跡→三ノ城戸を経由するのが無難です。また、山頂から北へ向かい大吉戸神社へ下るコースもあるらしいのですが薮で分かりませんでした。
【お薦めコース】
登山口→(約17分)→東南角石塁→(約5分)→東屋→(約20分)→南西部石塁→(約8分)→城山山頂→(南西部石塁・東屋経由で22~23分)→防人住居跡(ビングシ門跡)→(約5分)→二ノ城戸→(約2分)→一ノ城戸→(約5分)→大吉戸神社→(約16分)→三ノ城戸→(約6分)→東南角石塁→(約12分)→登山口
形状
朝鮮式山城(標高276m)
現状・遺構等
【現状】 山林(国指定史跡)
【遺構等】 石垣(城戸・水門・石塁)、土塁、門礎石、住居跡(掘立柱建物等の平面表示)、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2015/07/13
歴史等
斉明天皇6年(660)に滅亡した百済を再興するため日本・百済軍は、天智天皇2年(663)に白村江での唐・新羅軍との戦い(白村江の戦い)で大敗し、朝鮮半島から撤退しました。
唐・新羅の来襲を恐れた大和朝廷は防備を整えることが急務となり、天智天皇4年(665)に水城・大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、長門城(山口県)を、天智天皇6年(667)に高安城(大阪府・奈良県)、屋島城(香川県)、金田城を築き、国土防衛の備えとしました。
その中で対馬は軍事拠点として国防の最前線の島となり、金田城は見張り・通信等々の重要な役割を担っていました。そして、初期の防人たちは東国(関東)から徴発され、3年間対馬で耕作を行ないながら国境防衛の任にあたりました。
それから1200年以上の時が過ぎ、忘れられていた金田城は、日露戦争前夜という国際情勢のなか、明治33年(1900)に再び要塞として整備され巨大な砲台(城山砲台)が据えつけられました。
『「現地説明板」、「パンフレット」他より』
現況・登城記・感想等
金田城は、下対馬の北端、浅茅(あそう)湾南岸に突き出した城山(じょうやま)にあります。城山は全体が石英斑岩の巨大な岩塊であり、金田城はその天然の地形を巧みに利用して築かれています。
城の縄張りは、城山の周囲を取り巻くように城壁がめぐり、人為的な城壁は2.9km、天然の断崖を含む城壁の総延長は5.4kmに及びます。
谷間には水門を設け、城の内部と外部を結ぶ3つの城戸(一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸)が設けられています。これら3つの石組みで築かれた城戸はいずれも見応え満点です。さらには、登り石垣のように築かれた東南角の石塁や南西部の石塁も、これまた見応え満点です。
また、山頂からは朝鮮半島方向が開け、眼下に広がる浅茅湾と島々、その向こうに見える水平線の光景はまさに絶景ですが、遥か昔、遠く東国から徴兵された防人がここで朝鮮半島を睨み続け、望郷の歌を詠んだのではと思うと、少し感傷的にもなります。
古代山城には他にも大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、鬼ノ城(岡山県)等、見応えのある城跡が多くありますが、その中でも一番見応えがあるかもしれません。
(2015/7/13訪れて)
ギャラリー
【登城記】
昨夜は、台風が当初の予想よりも早く通り過ぎてくれたお蔭で、福岡発0:10のフェリーに乗って今朝4:40に厳原港に到着しました。そのままフェリーで7:00まで眠ってから下船しまし、レンタカーを借りて金田城跡へやって来ました。今日は、長崎時代の仲間Y輔君との登城です。
登城口
城山入口から、この登城口までの1.8kmの林道は、最初はセメント舗装がされていますが、途中から未舗装な上、台風一過での登城でしたので、道が荒れていて大変でした。登城口には、説明板と城址碑が立ち、その間に乗用車が3台ほど駐車できるスペースがあります。
登城道
日露戦争の頃に、軍道が整備され山頂に砲台が造られたので、山頂まではその軍道が格好の登山道となっています。
黒瀬湾を望む
登城口から12~13分ほど登って行くと右手下に黒瀬湾の光景が広がります。山々が入り組んだ湾の光景が素晴らしいです。
南門
この黒瀬湾が見えて来た辺りが南門跡のようで、門の礎石が確認できました。
東南角石塁 ~画面をクリックにて拡大~
南門跡から3分ほど登って行くと、右手に黒瀬湾の方へ向かって延びる登り石垣のような石塁が見えます。これほどの石塁が、古代に築かれたと思うと感激です。
石塁の城内側(写真左側)には、防人の詰所或いは見張り場と考えられる2棟の掘立柱建物跡が平面表示されています。
東南角石塁の中程の石垣
石塁に沿って下りて行くと、中程辺りに石垣が取り囲んでいるところがあります。往時は、ここの見張り塔か何かの建物でもあったのでしょうか。
東南角石塁最下部の石垣(城外側から撮影)
さらに下りて行くと、城外側へ廻れるところが見付かりました。当写真は石塁の最下部の石垣を城外側から撮ったものですが、かなり復元が進んでいるようです。
東南角石塁(城外側から撮影)
かなり崩れてしまっている部分もありますが、大半は良好に残っています。
東屋(分岐点)
東南角石塁のところから軍道を5分ほど登ってくると東屋があります。ここは、左へ行くと山頂への軍道、真っ直ぐ進むとビングシ鞍部(ビングシ門)へ向かう山道の分岐点でもあります。
南西部石塁
東屋から軍道を18分ほど登ると、またまた登り石垣のような石塁が現れます。上部分の石垣は、はかなり崩れていますが、下の方はかなり良好に残っているようでした。尚、この石塁は両側共下りて行けそうにありません。
要塞(城山砲台)跡
南西部石塁のところから軍道を5~6分ほど登って行くと山頂部に着き、そこには廃墟となった要塞跡があります。山頂部は比較的平らな場所が広いですが、恐らく、要塞を築くにあたってかなり改変されていると思われますので、金田城時代がどうであったのかは見当がつきません。
山頂からの頂上 ~画面をクリックにて拡大~
山頂からは朝鮮半島方向が開け、眼下に広がる浅茅湾と島々、その向こうに見える水平線の光景はまさに絶景です。遥か昔、遠く東国から徴兵された防人がここで朝鮮半島を睨み続けたのです。水平線の向こうに朝鮮半島が見えるような見えないような(苦笑)。尚、真下はまさに絶壁です( ̄ー ̄;。
ビングシ山周辺の遺構案内(現地説明板より)
山頂で景色を見ながら休憩した後、東屋経由でビングシ山鞍部へ・・・。この付近一帯は土塁、複数の掘立柱建物が確認されていることから、金田城の中枢であったと考えられます。
ビングシ門跡
平成5年度から開始された調査の結果、この地から門礎石1個と土塁が確認されました。縦0.8m×横1.2m×厚さ0.3mの石英斑岩に直径25cmと深さ6cm、直径13cmと深さ8cmの柱穴が施されており、門の存在が確認されました。しかし、対となるはずの門礎石は発見されませんでした。現在置かれている北土塁側(写真左)の門礎石は複製です。
土塁
ビングシ山鞍部を防御するように弧状に築かれた土塁も発見されました。断ち割り調査の結果、土塁は二重構造となっており、ある時期に拡張されたことが証明されました。
当写真は、南側土塁上から撮ったもので、中央の凹部がビングシ門跡で、その向こうから奥に延びているのが北土塁です。
掘立柱建物跡(ビングシ門の南西)
ビングシ門の南西には、梁行1間、桁行3間の掘立柱建物が確認されました。柱穴は岩盤を掘り込んでおり、柱は2m間隔で統一されています。また、柵列や炉跡が確認されており、防人が生活していた詰所、宿的目的の建物であったと考えられます。尚、現在建っている建物は、勿論復元ではありません。
掘立柱建物跡(ビングシ山山頂付近)
ビングシ山山頂付近にも梁行1間、桁行3間の掘立柱建物が確認されています。こちらは、その立地からして見張りのための施設であった可能性が高いと思われます。
二ノ城戸へ向かう山道
ビングシ門跡から二ノ城戸へ下りて行く山道は、途中から沢沿いの下りていくことになります。往時のものか、山頂に砲台を構えた日露戦争前のものか、或いは近年のものかは分かりませんが、道の両側や沢には、所々に石垣が散見されます。
二ノ城戸が・・・
ビングシ門跡から5分程降りて来ると、正面に二ノ城戸が見えてきます。城戸の向こうに海が見え、かなり下りて来たのが分かります。
二ノ城戸全景(正面から)
二ノ城戸は平成16年度~18年度に復元されたものですが、城門両側の石垣の高さは5m以上あり圧倒されるほど立派です。
二ノ城戸北石垣解体写真(2007/2)~現地案内板より~
二ノ城戸城門跡は、かねてから柱穴のある門礎石が2石露出しており、また、門にとりつく石垣も比較的良好に残っていました。平成11年度の発掘調査で新たな門礎石などが確認されました。
二ノ城戸石垣修理平面図
城門の両側の石垣は上半部が崩落して多くの石材が流出していたため、平成16年度~18年度まで門にとりつく両側の石垣と門跡の側壁の整備を行ない復元しました。
二ノ城戸城門跡
城門の構造は間口1間(約2.8m)、奥行3間(約5m)ほど、石敷床面は階段式に仕上げられ、3対の礎石が現存する特異構造は極めて珍しいものです。
平成17年(2005)の集中豪雨によって城門内部に雨水が流れ込んだため、その保護対策として礫籠を床面と北石垣前面に配置しました。尚、前面に設置された石段は、下へ降りれるように設置したもので、築城当時の遺構ではありません。。
二ノ城戸北石垣前面
二ノ城戸(南石垣上から) ~画面をクリックにて拡大~
壮大な二ノ城戸は、どの角度から眺めてもうっとりするほど素晴らしいですね。一ノ城戸へは、写真右上の北石垣の上を通って行きます。
二ノ城戸(北石垣上から) ~画面をクリックにて拡大~
二ノ城戸のすぐ上(写真右上)に、左へ向かう道が三ノ城戸へとの案内板があります。一ノ城戸と大吉戸神社へ行ったあと、その道を行ったのですが、三ノ城戸へ直接向かうルートは薮で道が分かりませんでした。
石塁(一ノ城戸へ向かう)
二ノ城戸を見たあと、一の城戸を目指して石塁沿いの道を行きます。写真右の石塁の外側は急崖になっています。
一ノ城戸の城楼の基壇
石塁に登って外側を覗いたら、右手前方に櫓台のような石垣が見えました。一ノ城戸の城楼の基壇です。
一ノ城戸・大吉戸神社と山頂への分岐点
二ノ城戸から1~2分ほど歩いて行くと、「海岸降口」の案内板が現れます。右へ曲がると大吉戸神社のある海岸へ、真っ直ぐは山頂への道で、右すぐ下が一ノ城戸になります。
ところで、私は石塁などの写真を撮りながらゆっくり歩いていたら、先に前を歩いていたY輔君の「ギャーッ」という叫び声がしました。どうしたのか聞くと、イノシシに出逢ったのだそうですw(*゚o゚*)w。
一ノ城戸
分岐点を右に曲がってから振り返って撮った写真です。右奥が一ノ城戸の石垣です。恐らく、写真やや左の岩場の道に城門があったのでしょう。
一ノ城戸の石垣
一ノ城戸の石垣の底部(写真右下)には水門が確認できます。石垣の高さは5mほどあるでしょう。
一ノ城戸城楼の基壇
道の南側には立派な石垣が見えます。一ノ城戸の城楼の基壇です。かなり大きな石が使われており、特に角部は算木積みではありませんが、加工された大きな石が使われていて、とても古代の城のものとは思われないほどです。尚、石垣の高さは4mほどあるでしょう。
漂着物
一ノ城戸から海岸へ下りて行くと、台風のせいか、ブイやペットボトルなどの漂着物だらけ・・・。ペットボトルを見ると、ほとんどがハングル文字で、韓国が近いことを実感します。
船着き場
海岸には船着き場があります。船着き場へ歩いて行きます。
大吉戸神社
船着き場の山側には大吉戸神社(おおきどじんじゃ)があり、その下に金田城に関する説明板と石碑が立っています。大吉戸神社は、城山の守護として「八幡神」である神巧皇后、応神天皇を祀った神社で、「吉戸」は「城戸」を表しているとも言われ、皇后は金田城を守るような場所にあります。平安時代に編纂された「日本三代実録」にも載っている古い神社だそうです。
鋸割岩(のこわきいわ)
対馬は島の89%を山地がしめています。しかも、そのいずれの山も急峻です。大吉戸神社前の船着場の北には高さ40mを越える鋸割岩が聳えていますが、その迫力は凄いものがあります。
三ノ城戸へ
大吉戸神社でお参りしてから、先程通った道(一ノ城戸・二ノ城戸・ビングシ門)を引き返して三ノ城戸へ向かいました。ビングシ門から三ノ城戸までの道は、台風が通り過ぎたあとだったせいか、まるで小川のような道を歩いて来ました( ̄ー ̄;。
三ノ城戸
金田城のなかで最も大きな谷に築かれた三ノ城戸は標高32mと3つの城戸の中で最も高い位置にあり、石垣の高さは約3.5m、幅約4mあります。当日は、城門の間がまさに川状態でしたが、台風のせいでしょうか?
三ノ城戸城門礎石
まるで川のような城門の間に2つの門の礎石を見付けました。
三ノ城戸を見たあとは、東南角石塁脇、南門跡を通り登城口へ戻りました。
金田城跡は、想像以上に規模も大きい上、遺構が良好に残る素晴らしい城跡で感激しました。超お薦めの城です。