豊後 月隈城(日田市)

月隈城南麓に残る水堀

関ヶ原合戦後に小川光氏が築いた平山城、天領代官所として明治を迎えた

読み方

つきくまじょう

別名(正式名称)

丸山城、永山城

所在地

大分県日田市丸山2丁目、月隈公園
【アクセス】
日田林高校のすぐ東にある月隈公園が城跡で、公園に無料駐車場があります。
日田林高校:日田市吹上町30、電話0973-22-5171

所要時間

駐車場から本丸まで5~6分、今回の見学時間は30分ほどでした。

形状

平山城(標高119m、比高約25m)

現状・遺構等

【現状】 月隈公園
【遺構等】 曲輪、石垣、水堀、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/11/27

歴史等

関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601)、小川光氏が月隈山に築城し、丸山城と名付けた。
慶長15年(1610)8月、光氏が病死し、小川家は無嗣断絶となるが、城地は一族の小川喜助と小川又左衛門が城代を務めた。
慶長19年(1614)からの大坂の陣で、小川氏は徳川方に属して出陣し、元和元年(1615)帰城した。
元和4年(1618)美濃大垣より石川忠総が6万石を領して入封し、この時丸山城から永山城へと改称した。
寛永10年(1633)忠総は下総佐倉へ移封となり、その後は、日隈城とともに小笠原氏が支配し、城代を置いた。
寛永16年(1639)天領として代官支配となり永山布政所が置かれ、先に城代であった小川喜助の子正慶と又左衛門の子政重が幕府代官として派遣された。
天和2年(1682)松平直矩が播磨姫路から7万石で入封し、山麓に館を築くが、直矩は館の完成を待たずに出羽山形に移封、そのあとに小川藤左衛門が入り代官所とした。
その後、約180年間徳川幕府の天領として支配され明治に至った。
『「現地説明板」、「日本城郭大系」ほか参照』

現況・登城記・感想等

月隈城は、市街地北部にある三隈三山の一つである月隈山に築かれた平山城です。月隈山にあることから、通称「月隈城」と呼ばれている城であるが、本来の城名は「永山城」、もしくは「丸山城」のようです。
永山城は、現在月隈公園となり、水堀脇の石垣に白い土塀が復元されている。水堀の幅は20mほどあり、なかなか立派です。
山頂部の本丸には、丸石が積まれた天守台と思われる櫓台が築かれている。
また、主郭虎口には、櫓が建てられていたのであろうか、ここの石垣はなかなか見応えがあります。
尚、登城道に面する斜面にいたるところに穴が開いていますが、古墳時代の横穴墓のようです。
(2013/11/27登城して)

三隈三山:日田市に位置する日田盆地内にある日隈、月隈、星隈の3つの丘の総称

ギャラリー

月隈城縄張略図(現地案内板地図を利用)
月隈城縄張略図

月隈城全景
城の南東から撮ったものです。石垣の上には、真っ白な土塀が復元され近世城郭らしさを漂わせています。
01城壁

水堀
往時は、城の周囲を囲んでいたようですが、埋め立てられ、城の南面の水堀しか残っていませんが、幅20m近くある立派なものです。
03水堀

三の丸跡
城の南麓の三の丸跡は、月隈公園となり市民の憩いの広場になっています。
05三の丸

登城
登城しはじめると、頭上に石垣が見えて来ます。本丸への虎口脇に築かれた石垣です。場所から考えて、櫓台でしょうか。
写真にも写っているように、登城道の斜面には、やたらと穴が開いています。古墳時代の横穴墓だそうですが、あまりにも多すぎてちょっと気味悪いほどです。
 
07登城道

二の丸
石段を登って行くと、月隈神社が鎮座する二の丸跡へ出ます。二の丸の側面も石垣で固められています。
09二の丸

本丸への虎口脇の(櫓台?)石垣
二の丸から本丸へ向かう虎口脇には立派な石垣が築かれています。場所的に考えると、櫓台でしょうか。
11石垣

櫓台脇から二の丸を
13二の丸を

櫓台上
15櫓台上

櫓台上からの眺望
櫓台上からは、日田市街が一望できます。真下が三の丸跡で、その向こうが、今は市街地に埋もれていますが、永山布政所跡です。
IMG_6092

本丸へ向かう登城道側面の石垣
こんな小規模な城を築くのに3年も掛かったのが不思議でしたが、ここも含めて、ふんだんに築かれた石垣を見て納得しました。
17本丸への道側面石垣

本丸跡
本丸の北西隅は一段高くなっていますが、天守台のようです。
21本丸

天守台石垣
丸石が多く使われた天守台石垣は珍しいですね。遠江横須賀城を思い出しました。
23天守台石垣

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