下総 佐倉城(佐倉市)

復元された馬出し空堀

家康の重臣・土井利勝が入城、近世城郭に変貌

別名

鹿島台城

所在地

千葉県佐倉市城内町、佐倉城址公園

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】佐倉城址公園
【遺構等】曲輪、土塁(天守台、銅櫓跡、角櫓跡ほか)、水堀、空堀、馬出し空堀(復元)、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2004/01/11
2010/01/11

歴史等

千葉氏は、治承4年(1180)、源頼朝の平家打倒の旗揚げに協力して以来、鎌倉幕府有数の御家人として、房総半島一帯に君臨した。
しかし、戦国時代になると、相模の後北条氏や安房の里見氏といった新興勢力に圧倒され、その支配力は衰えを見せ始めた。康正元年(1455)千葉氏は、大治元年(1126)以降本拠地としていた亥鼻城を失い、 本佐倉城 (現印旛郡酒々井町)へ逃れ、しばらく本拠としていた。しかし、千葉親胤は、本佐倉城が手狭になり、鹿島台に新城を築こうと計画し、一族の鹿島幹胤に築城を命じたが相次ぐ家臣の造反で未完成であった。そして天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めで北条と共に千葉氏も取り潰され、 本佐倉城と共にこの城も焼かれた。
その後関ケ原に勝利し江戸に入った家康が、佐倉領を重視し、文禄元年(1592)五男の武田信吉を4万石で配した。慶長7年(1602)信吉が水戸へ移封すると、六男松平忠輝が5万石で入った。翌年、忠輝は信濃川中島へ移封し、 尾張藩主松平忠吉(家康四男)の付家老小笠原吉次(2万8千石)が入った。
慶長15年(1610)には徳川家康の重臣土井利勝が小見川から土井利勝(3万2千石からたびたび加増され寛永2年には14万2千石)が入城し、未完成だった鹿島台城を大名の居城として相応しいものに変貌させた。完成したのは元和3年(1617)のことである。それまでの佐倉城は、現在の本佐倉城を指すものであったが、利勝は新城を佐倉城と命名した。
寛永10年(1633)、土井氏が古河へ転封になったのち、佐倉には石川、松平、堀田、松平、大久保、戸田、稲葉、松平と老中が相次いで入城し、最後に延徳3年(1746)堀田氏が10万石で入封すると6代で約100年支配し、明治維新を迎えている。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』

現況・登城記・感想等

本丸も広く、堀の幅も広くて深い。さぞや、当時はさらに深かったのであろう。
馬出し空堀が復元されているが、これもなかなか美しい。当時ははるかに深い堀だったそうである。
建物は残っていないものの、想像していたよりずっと城跡の形状がよく残っており、規模もなかなか大きく、見応えのある城跡であった。今日は、成田山参拝の帰りで、しかも駅からかなり遠くて疲れていたが、本当に来て良かった。
(2003/01/11訪城後)

佐倉城址への登城は久し振りだ。前回は6年前の同じ1月11日に、しかも今回と同様、成田山への初詣の時に登城している。
前回の登城時にも素晴らしい城址だとは思ったが、再登城して愕然としたのは、記憶よりも遥かに大規模な城で、遺構も良好且つ多く残っており、しかもそれらの遺構が非常に素晴らしいことである。しかも三の丸の喰い違い虎口や出丸等々、見過ごしてしまっていた遺構もいっぱいあった。当時の城址に対する知識が如何にお粗末なものであったかを痛感した。
さて、今更ながらであるが、大規模な空堀は見応え充分であった。国立歴史民俗博物館の前に復元された馬出し空堀は勿論美しいが、本丸・二の丸・三の丸の空堀は10m近い、或いはそれ以上の深さがある上、幅も20m近くあり迫力満点である。
また、曲輪を囲む土塁も良好に残っているだけでなく、よく整備されていて、見ているだけで当時が偲ばれてわくわくする。
当然、満足度も★★★★☆から★★★★★に変更だ。
(2010/01/11登城して)

ギャラリー

城址案内図(現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
佐倉城は本丸の2方を二の丸が、二の丸の2方を三の丸が囲う典型的な梯郭式平山城である。
今回は、国立歴史民俗博物館の入り口付近(田町門跡)から入城し、案内板前の駐車場に車を置いて、図の現在地のところから左へと時計回りに廻った。

佐倉城縄張図

城址公園東側の水堀(三十三間堀)
国立歴史民俗博物館へ向かう愛宕坂下が田町門のあったところで、その手前両側には、今も三十三間堀と云われた水堀の美しい姿が残っている。
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姥が池
この池は、江戸時代カキツバタの名所であった。後に(天保時代)この池の周りで家老の娘をおもりしていた姥が、あやまって娘を池に落としてしまい、娘はそのまま池に沈んでしまった。姥は困り果て身を投げたと云われる。以来「姥が池」と言われるようになった。
この池を挟んで両側に三の丸を囲む空堀がある。当然、この池も堀の役目をしていただろう。

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三の丸の空堀①(堀底道)
姥が池から南西へ向かう空堀があり、堀底道になっている。この両側の高さは5m~7mほどある。
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三の丸の空堀②
上写真の空堀をほぼ登り切った辺りの右手に大規模な空堀が現われる。両側の高さは7m~10mはあるだろう。遠くに見える人(実は私)と較べて戴ければ分かるだろう。
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三の丸空堀③
登り切ると広い自由広場へ出る。そこを右へ曲がり進んで行くと左手に、またまた大規模な空堀が現われる。この空堀は、かなり埋まってはいるが、深さ4~5mほどあり、幅はゆうに20m以上はある。
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三ノ門跡  
この門は、北面、木造、本瓦葺き、二階造り、梁間3間(約5.5m)、桁行6間(約10.9m)で、作事の諸道具を入れた倉庫として使われた。門内は、三の丸で、家老屋敷が置かれていた。
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明治初期に撮影の三ノ門(案内板より)
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三の丸西側の土塁
三ノ門を入ると三の丸である。その西側に土塁が見え、南端は櫓台のようで、右端が喰い違い虎口になっている。
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三の丸西側土塁南端の櫓台
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三の丸の喰い違い虎口
三の丸の南西部には喰い違い虎口がある。綺麗に復元され、何とも云えずかっこいい。この虎口を降りて行くと出丸へ下りて行ける。
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堀田正睦とハリスの銅像
三の丸から二の丸方面へ向かうと、幕末の佐倉藩主堀田正睦とハリスの銅像が仲良く並んでいる?
いくら「日米修好通商条約」を結んだ仲とはいえ、この苦しみで亡くなったとも云える堀田さんである。果たしてあの世で、どう思っているのだろう?

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二の丸空堀
上写真の銅像の間を通り、二の丸方面へ向かうと二ノ門の手前両側に空堀が見えてくる。この空堀も実に大規模で、深さ10m、幅20mはあるだろう。ただ、この空堀は木々が鬱蒼と生えていて、写真では分かりづらいのが残念だ。
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二ノ門跡
この門は北面、木造、本瓦葺き、二階造り、梁間3間(約5.5m)、桁行8間(約14.6m)で、「二ノ御門」と呼ばれていた。一ノ門の東方一直線上にあたり武器庫として使用された。門内は、藩政を執る役所が置かれていた。
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明治初期撮影の二ノ門(案内板より)
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二の丸土塁
二ノ門を入ると二の丸である。ここにも左手に土塁が良好に残っている。
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本丸南東部の空堀
二の門跡を進んでいくと、真っ直ぐ行く道と左へ曲がる分岐点へ出るが、そこに左右両側に直角に延びる大規模な空堀が現れる。この空堀も、深さ10m、幅20mはある。そして、ここも木々が鬱蒼と生え、残念ながら写真ではちょっと分かり辛い(/。ヽ)。
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一ノ門跡
分岐点を左手に上写真の空堀を見て、真っ直ぐ進むと一ノ門跡へ出る。この門は東面、木造、本瓦葺き、二階造り、梁間4間(約7.3m)、桁行8間(約14.6m)で、本丸からみて最初の門で「一ノ御門」と呼ばれていた。門内の本丸には、天守閣・銅櫓・角櫓・御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。
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明治初期撮影の一ノ門(案内板より)
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一ノ門東側の本丸空堀
一ノ門の東側にも空堀があり、これまた大規模で、深さ10m、幅20mはゆうにある。写真の空堀は、門の南東部のもので、この辺りは割り合い木が少なく、底までよく見えるので一層迫力がある。
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本丸跡
本丸跡は芝生が張られた広場になっているが、ほぼ完全な姿で残り、周囲に高さ4mほどの土塁が巡り、天守台や銅櫓や角隅櫓(三階櫓)などの跡が残っている。土塁は幅が広く、多聞櫓のような回廊式の建物があったという。
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本丸跡にて
左背後に天守台、右背後に銅櫓跡が見える。
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本丸北側の土塁
本丸北側の土塁は屏風のように曲がっていてビジュアル的にもかっこいい。左手前が銅櫓跡で、右奥が一ノ門跡である。
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銅櫓跡
銅櫓は木造、銅瓦葺、6間(約10.9m)四方、二階造りであった。
土居利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭園より移築したもので、もとは三層で太田道灌が造ったものと云われている。
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明治初期撮影の銅櫓(案内板より)
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天守台跡
二段の土塁で築かれている、珍しい天守台である。天守は三層四階で、この土塁に半分乗り上げる形で築かれていたそうだ。文化10年(1813)に焼失し以後再建されることはなかった。
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角隅櫓(三階櫓)跡
不明門(台所門)の右の方に角隅櫓(三階櫓)跡がある。文化10年(1813)に天守閣が焼失した後は、天守の代わりをした櫓だと思うのだが、土塁の高さは1mほどしかない。しかも、場所的にも城外からは見えないと思うが・・・?
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本丸南西部の土塁
本丸周囲は高さ3mほどの土塁で囲まれており、写真手前部分(不明門の横)は、中でも、やや幅が広い。多分櫓が建っていたのではと思われるが、案内板などはない。
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不明門(台所門)
不明門は搦手口になる。写真正面奥は本丸跡である。
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佐倉城の礎石
昭和59年、60年に国立歴史民俗博物館の研究棟を建設のために同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。明治初期(1873)に、陸軍の営所を置く際に、佐倉城の建物を取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したものであある。現在、二の丸北西部に集められている。
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椎木門跡前面の馬出し空堀
発掘調査により、長辺121m短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認復元状況は、深さのみ約3mにしてある。
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椎木門跡前面の馬出しと空堀
空堀で囲まれた馬出しを撮ろうとしたが、こちらがわに高いところがなく、空堀の向こうに僅かに写っただけ。
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本丸の帯曲輪跡
不明門の手前から帯曲輪へ下りて行った。帯曲輪は、本丸の南西部から北側にかけて延々と延びている。
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本丸北西部の出丸跡
本丸周囲下の帯曲輪をどんどん歩いて行くと、左手下に出丸が見えてくる。高い土塁に囲まれたすり鉢状の姿が絵になる。出丸は、この他に本丸南西部下にもある。
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北西の出丸に建つ門と水堀
門は、佐倉城内の移築門だそうだが、どこの門だったかはわからないようだ。
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本丸西側の水堀
水堀は、城の東側と西側に残っているが、こちら西側の方が長いようだ。
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