東の郭の土塁と腰巻石垣
日向一円を支配した伊東氏48城の1つで、日向三城の一つ
読み方
ひちやじょう
別名
船岡城
所在地
宮崎県日向市日知屋字伊勢ヶ浜、伊勢ケ浜公園
県道15号「伊勢ヶ浜信号」を南東へ入り、200m程進むと大御神の東に駐車場があります。この駐車場の南東が城跡で、城跡を廻るコースが載っていますが、微妙に違っているように思います。
所要時間
今回の見学時間は40分
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 伊勢ケ浜公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、石垣、模擬城門、石碑(城址碑、説明碑)、城内散策コース案内板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/11/30
歴史等
日知屋城は鎌倉末期から室町時代半ば頃までの間に、この地方の地頭職だった伊東氏(工藤祐経の後裔)によって築かれ、天正年間まで同氏の居城であった。
当初、塩見城に在城し、富高塩見荘一円を支配していた土持氏に対抗するための重要な砦であったので、天然の地形を利用した堅固な城を築いた。
後に、土持氏を駆逐して塩見城が伊東氏の領するところとなってからも、北方の一大勢力であった大友氏に対する戦略的拠点として門川城、塩見城と共にその存在価値は薄れなかった。
伊東氏は祐国、伊祐の時代から飫肥城の攻防を巡って島津氏との確執が続いた。その戦いで祐国が戦死し、弟の日知屋城主祐邑は大友氏と結んで伊東家の安泰をはかり、島津氏に当ろうと画策したが、かえって一族の誤解を受け、文明13年(1556)この城内で暗殺された。
天正6年(1578)島津氏の持ち城となり、井尻伊賀守が城主となった。
天正15年(1587)秀吉の九州平定後は、門川城・塩見城・日知屋城の3城は県城(延岡城)主高橋元種の領地となり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
『「現地説明碑」、「日本城郭大系16」より』
現況・登城記・感想等
日知屋城は、伊勢ケ浜南岸の日向灘に突出した岬に築かれた城です。
現在、城跡は伊勢ヶ浜公園として整備され、城内にはいると6ヶ所ほどの不整形な曲輪があり、土塁・空堀・石垣などの遺構が残っています。
特に、石垣は大規模なものはないが、城内のあちこちに見られます。ただ、現存されたもの、復元されたもの、或いは新たに築かれたものが混在していそうです。
尚、全体的な縄張は、地形や岩盤に制約されるためか、まとまりに欠けるきらいがあり、また、案内板の図がもう一つ正確ではないようで、自分が何処にいるのか迷ってしまうことも度々でした( ̄ー ̄;。
(2013/11/30登城して)
ギャラリー
日知屋城内案内図(現地案内板より)
主郭を中心に、東の曲輪、西の曲輪をはじめ6つの不整形な曲輪があります。尚、この案内図ですが、登城口周辺など、微妙に違っているような気がします。
城址碑と城説明碑
登城口(駐車場)に、高さ3mはゆうにある、すごく立派な石垣が立っています。当城だけでなく、大分県と宮崎県の城址には立派な石碑が多いような気がします。
石垣
城内には、至る所に石垣があります。当石垣は、登城口から入城して、すぐ右手の石垣です。
堀切
上写真石垣のすぐ左上には堀切がありますが、登って行くことは無理でした。この堀切が、城内と城外を断ち切っていたものと思われます。
石段
城の南西には石段が設けられ、西の郭へ登って行きます。途中、側面には石垣も設けられています。石の積み方からみて、多分、当時のものと思われますが、微妙です。
西の郭
不整形ですが、かなり広い曲輪です。周囲には、至る所に石が転がっています。
虎口
この西の郭へ入る虎口が大手の虎口でしょう。日知屋城で唯一残っている虎口だそうです。
主郭
主郭は、城の中心部にあります。細長い不整形な曲輪ですが、かなり広いです。
主郭内の石垣
主郭内の一部には、石垣が残っています。
東の郭へ
一旦、主郭下へ下りて東の郭へ向かいます。右上が主郭で、真っ直ぐ進むと本丸で、左へ曲がると東の郭へ行きます。主郭下の石垣は崩れており、多くの石が転がっています。
東の郭
東の郭跡が、石垣や土塁(写真奥)等、城内で最も整備されています。
東の郭の南側から西側にかけての土塁と腰巻石垣
東の郭南側の石垣の東端の石垣
日知屋城の石垣は、あまり大きな石が使用されていませんが、ここだけは比較的大きな石が使用されています。
土塁
東の郭の南側の土塁の外(海)側です。外側にも、腰巻石垣が設けられています。
日向灘
上写真の土塁前から日向灘を眺めたものですが、さすが南国宮崎の海です。11月末にも関わらず、実に明るいです。下は、絶壁です。
伊勢ヶ浜
下城は右手に伊勢ヶ浜を見ながらです。11月末ですが、海水浴ができそうな気さえします(笑)。この浜に見惚れて、舟付の郭を見落としてしまいましたw(*゚o゚*)w。