シベラス半島(ヴァレッタ)を断ち切る大堀切とサン・ジョーンズ堡塁
オスマン帝国によるマルタ包囲戦後にマルタ騎士団が築いた難攻不落の城塞都市
英語名
Valletta
マルタ語名
Il-Belt (イル・ベルト 「都市」の意味)
訪城日
2015/05/18
歴史等
【マルタの歴史】
マルタ島は、天然の良港に恵まれていることから、紀元前800年頃、現在のレバノン一帯が起源とされるフェニキア人に前哨基地として利用されました。
紀元前400年頃、カルタゴの支配を受け、その後ローマに支配されましたが、その頃から既に地中海貿易で繁栄していました。
ビザンチン領時代の836年頃から、アラブ人による攻撃が始まり、近くにあるシチリアが陥落する中、870年に現在のチュニジア起源のアグラビット王朝のアラブ人に征服されるまで敵の手に落ちませんでした。それはシチリア陥落より30年後のことで、アラブ人はシチリアを基地にして侵略を進めたのでした。
その後、1127年にノルマン人が占拠しましたが、最後のノルマン人の王には跡継ぎがなかったため、1194年にはスエビ家(ドイツ)、1268年にはアンジュー家(フランス)、1283年にはアラゴン家(スペイン)、1410年にはカスティーリャ家(スペイン)と次々と支配者が代わり、1479年スペインの支配下に置かれました。
1530年、1522年にオスマン帝国のスレイマン大帝によりロドス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)が、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、キリスト教勢力の防衛線としてシチリア王からマルタ島を借りることになりました。
1565年、マルタ騎士団はオスマン帝国からの攻撃を受けますが(マルタ包囲戦)、およそ4ヶ月で撃退に成功しました。現在の首都ヴァレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前に因んでいます。
その後、マルタ島はエジプト遠征(1798~1801年)途上のナポレオン・ボナパルトによって占領されますが、その没落後はイギリス支配下となります。
第二次世界大戦中にはイギリス海軍の拠点としてイタリアと北アフリカとを結ぶ枢軸国側の輸送路を脅かす存在となったために空襲に晒されましたが(第二次マルタ包囲戦)、ついに陥落することはありませんでした。
戦後、反英抵抗運動、独立闘争が起り、1964年には英連邦王国マルタ国としてイギリスから独立し、さらに1974年12月13日にはイギリス連邦内のマルタ共和国となりました。
【ヴァレッタの歴史】
1530年聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)が、マルタ島に上陸した際、岩が多く険しいシベラス山を要塞化しようと考えました。1557年、ジャン・ド・ヴァレットが騎士団総長に選出されるや否や要塞化計画の準備をさせましたが、1565年オスマン帝国によるマルタ包囲戦が始まり、シベラス半島の先端に砦(聖エルモ砦)を築くに留まりました。
4ヶ月間にわたる攻防の末、何とか撃退に成功はしたものの、アイベラス山の戦略的な重要性は、そのマルタ包囲戦で非常に明白になり、包囲戦が終わると直ちに騎士団はシベラス半島上に新都市建設を決めました。
教皇ピウス5世とスペインのフィリップ王が財政的な援助を与え、イタリア人の優れた軍事技術者のフランチェスコ・ラパレリを派遣し、新しい要塞都市計画が開始されました。ラパレリが島を離れたとき、彼はマルタ人の弟子であったジェロラモ・カサールを残し、自分の仕事を引き継がせました。
そして、1566年から、15年の驚くほど短い期間に、その見事な要塞、砦や大聖堂などが建設され、要塞都市「ヴァレッタ」は完成しました。
尚、ヴァレットは都市の完成を見届けることなく1568年8月21日に74歳で死に、勝利の聖母教会に埋葬されましたが、のちに聖ヨハネ准司教座聖堂が建つと、そこへ移葬されました。
『「現地購入誌・マルタ」他参照』
現況・登城記・感想等
マルタ共和国の首都「ヴァレッタ」は、シベラス半島の両側にある2つの港を護るために築かれた城塞都市で、半島の中ほどを大堀切で断ち切り、先端部周囲を堅牢な堡塁や城壁で取り囲んで要塞化した難攻不落の城塞都市です。
半島北西側の「マルサイムシェット・ハーバー」は、対岸にあるスリーマやマヌエル島の 「マヌエル砦(Fort Manoel)」とで取り囲んでいます。
南東側の「グランド・ハーバー」はスリー・シティーズ(特に、ヴィットリオーザの「聖アンジェロ砦」や「聖ミケーレ砦」の監視台」)とで取り囲み、さらにハーバーへの狭くなっている入口両側をシベラス半島先端の「聖エルモ砦」と対岸の「リカゾーリ砦」で挟み込んでおり、まさに鉄壁の構えです。
その難攻不落ぶりは、ナポレオンのマルタ奪取も決して軍事的勝利ではなく、当時のマルタ騎士団長が無抵抗で降伏しなければ落とせなかったであろうとさえ云われています。
今回の南イタリアとマルタ旅行で一番期待していたのが、このヴァレッタでしたが、期待に違わない見どころいっぱいの素晴らしい城塞都市でした。
(2016/05/18登城して)
ギャラリー
ヴァレッタの地図(現地パンフレットより)
ヴァレッタは、1565年にオスマン帝国からの防衛に成功した聖ヨハネ騎士団(のちのマルタ騎士団)の総長ジャン・パリン・ドゥ・ラ・ヴァレットによって築かれた難攻不落の要塞都市であり、イスラムの大国・オスマン帝国からヨーロッパを守る最終防衛拠点でした。城塞都市「ヴァレッタ」は、海に突き出たシベラス半島の中央部を大堀切で断ち切り、城壁を設けた防御になっています。また、半島先端部の聖エルモ砦は出丸のようになっており、この間も濠で断ち切られています。これらの発想は、日本の城郭の築城と同じですね。そして、ヴァレッタの町の周囲を、城壁と堡塁が取り囲んでおり、まさに鉄壁の防御です。
【市門周辺~フリーダム広場周辺】
市門
城塞都市ヴァレッタへは、大堀切に架かる橋を渡り、市門を通って入ります。ヴァレッタは、さすがにマルタで一番の観光地なので多くの観光客が訪れていました。
橋の右側の大堀切とサン・ジェームス堡塁(St.James Bastion)
橋の両側には巨大空堀があります。堀の幅は30m近く、深さはゆうに20mはあるでしょう。圧倒されるような規模です。この右側の空堀にはサン・ジェームス堡塁が突き出てきています。また、堀の下にも城内へ入る橋が架かっています。
橋の左側の大堀切とサン・ジョーンズ堡塁(St.johns Bastion)
橋の左側の空堀にはサン・ジョーンズ堡塁が突き出てきています。
ヴァレッタの西から北へ延びる空堀とサン・ミッシェル堡塁
上写真の大堀切は右へとヴァレッタの街の西側から北へと延びています。サン・ミッシェル堡塁には監視塔が残っています。
ヴァレッタ東側城壁
当写真は、ヴァレッタのフェリーターミナルからシチリア島へ向かう船の窓から撮ったものですが、ヴァレッタが如何に要害堅固な要塞都市か分かります。その船は甲板に出ることが出来ない上、窓が汚れていて、こんな写真しか撮れませんでした(;´▽`A``。
城壁上へ延びる石段
市門を抜けると、両側に城壁に沿った石段が延びています。当写真は門を抜けて右側の石段で、登り切ったところには「サン・ジェームス キャヴァリア(St.james Cavalier)」があります。「Cavalier」とは、辞書を引くと「騎士」となっていますが、堡塁で守備する兵を統括(或いは指揮)する場所でしょうか。
城壁上へ延びる石段
当写真は門を抜けてすぐ左側の石段で、登り切ったところに「サン・ジョーンズ キャヴァリア(St.Johns Cavalier)」があります。
サン・ジョーンズ キャヴァリア(St.johns Cavalier)
リパブリック通り
市門から半島先端の「聖エルモ砦」まで、ヴァレッタのメインストリートである「リパブリック通り」が真っ直ぐ延びています。右手前は国会議事堂でその奥にオペラ座跡の円柱が見えます。
オペラ座跡
19世紀(1866年完成)にヴァレッタの市の入口として、イギリス人建築家エドワード・ミドルトン・バリの設計で建てられた壮麗なロイヤル・オペラ・ハウスですが、第二次世界大戦でドイツ軍の空襲で破壊されたままです。
フリーダム広場
フリーダム広場の周囲には、首相官邸/オーベルジュ・ドゥ・カスティーユ、勝利の聖母教会などがあります。写真奥の建物は「サン・ジェームス キャバリア」です。
勝利の聖母教会
聖ヨハネ騎士団長ジャン・ド・ヴァレットが都市建設の礎石を置いたとされる場所です。オスマン帝国に対する勝利を記念し1567年に建設されたヴァレッタ最古の建造物です。現在見られるファサードは、17世紀にバロック様式に改築されました。創建当時には騎士団長ジャン・ド・ヴァレットの棺が埋葬されていましたが、1578年に聖ヨハネ大聖堂が完成すると、そちらに棺は移されました。教会前のジャン・ド・ヴァレット広場には、マルタ大包囲戦の際の騎士団総長ジャン・ド・ヴァレッ像(写真左)が立っています。
首相官邸/オーベルジュ・ドゥ・カスティーユ(Auberge de Castille)
1574年、スペイン、ポルトガル出身の騎士団の宿泊所として建てられました。入口前に2基の大砲が置かれています。現在は首相官邸となっているため内部見学不可です。
【アッパー・バラッカ・ガーデン】
アッパー・バラッカ・ガーデンは、19世紀まではイタリア人騎士団員の遊びと休息の場でした。
(アッパー・バラッカ・ガーデンへの門)
門の前には二人の兵隊さん?が立ってました。
アッパー・バラッカ・ガーデン
門を入ると庭園があり、観光客だけでなく地元の人と思われる人も多く訪れていました。背後(テラス側)には17世紀当時の柱廊が残っています。
柱廊
柱廊は1661年当時のもので、建設当時は屋根つきだったそうです。
【アッパー・バラッカ・ガーデンのテラスからの眺望】
柱廊を横切り、テラス(聖ジェームス堡塁の一部)へと向かうと、地中海随一といわれる良港グランドハーバーの光景が広がりますが、「これぞ、まさにマルタ」です(*^_^*)。
グランド・ハーバー湾を取り囲むように、正面対岸には「Three Cities(ヴィットリオーザ、セングレア、コスピークワ)」、右手奥にはウォーターフロントとフェリーターミナル、左手にはヴァレッタの城壁やヴィクトリア門、その向こうの湾入口を挟むように「リカゾーリ砦」、左前方にはカルカーラの古い街並みが見える光景はいつまで見ていても見飽きません。
(正面のスリーシティーズを)
柱廊を横切ってテラスへ出ると、真下のラスカリス砦(Fort Lascaris)には大砲が備えられています。グランドハーバーの向こうにはスリーシティーズが見えます。スリーシティーズは、その名の通りヴィットリーオーザ、セングレア、コスピークワの3つの町の総称で、左側の半島がヴィットリーオーザ、右側の半島がセングレア、両半島間奥の街がコスピークワです。
ヴィットリオーザ(聖アンジェロ砦)
ヴィットリオーザの半島先端に築かれた聖アンジェロ砦は、見るからに難攻不落の砦です。まるで軍艦のような形をしていて、実にかっこいいです。是非、登城したいところですが、団体ツアーの身の上では、とても無理です(;>_<;)。
セングレア(監視塔など)
これまた半島の先端部には砦が築かれ、監視塔が目を光らせています。ヴァレッタが築かれるまではこちらが中心都市でした。
グランドハーバーの奥
右手(グランドハーバー)奥にはウォーターフロントとフェリーターミナルが見え、大きな船が停泊中でした。このあと、この船に乗ってシチリア島へ向かいました。
グランドハーバー湾入口方面を
グランドハーバー湾入口の狭い箇所の対岸の岬の先端のリカゾーリ砦(左写真奥)が見えます。その右がカルカーラの古い街並み、一番右側の半島はヴィットリオーザの「聖アンジェロ砦」です。
ヴァレッタ東岸
グランドハーバー湾岸に切り立つ城壁は高さ10mほどでしょうか。まさに難攻不落ですね。グランドハーバーの湾内に入った船は、まさに袋の鼠状態でしょう。
写真中央にヴィクトリア門、その向こう(写真やや右奥)にはローアー・バラッカ・ガーデンが見えます。
【リパブリック通りを中心にヴァレッタの街の中心部】
市門から一直線に聖エルモ砦まで延びるヴァレッタのメインストリート「リパブリック通り」の両側には騎士団長の宮殿をはじめ多くの見どころがあります。
(リパブリック通り)
パレス広場
リパブリック通りの中央部辺りに、騎士団長の宮殿に面したパレス広場があります。
【騎士団長の宮殿】
騎士団長の宮殿は、入口を除き、何とも地味というか、シンプルな建物です。騎士団長がここから騎士団を統率したといいます。
中庭
入城して、まず中庭へ向かいます。中庭にはネプチューンの広場と呼ばれ噴水があり時計塔もあります。
宮殿内部
現在は大統領府や政府機関として使用されているため、公開されているのは2階のいくつかの部屋とネプチューンの中庭を囲む廊下のみですが、宮殿内部はシンプルな外観からは想像できない艶やかな内装で、廊下を彩る天井や壁の見事な絵画や、見学可能な部屋に掲げられたグレートシージ(大包囲戦)の名場面を描いた欄間絵などは一見の価値があります。
大包囲戦の場面を描いた欄間絵
床の色大理石の紋章
床の大理石も見事で、聖ヨハネ騎士団に参加している貴族などの家の紋章なども・・・。
【聖ヨハネ大聖堂】
聖ヨハネ大聖堂はマルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた教会です。1565年オスマン帝国の攻撃を退けた騎士団は、一時中断していた街の建設を再開しますが、それまでの功績と騎士団員の多くが有力貴族の出身者だったことから、騎士団には莫大な寄進が集まり、豪華な建物が次々と建設されます。その1つが聖ヨハネ大聖堂です。
(絢爛豪華な聖ヨハネ大聖堂内部)
大聖堂は外観はシンプルな造りですが、内観はバロック風の絢爛豪華な造りとなっており、当時の騎士団の資金の豊かさが窺えます。天井には聖ヨハネの生涯が描かれています。それにしても全てがキンキラキンですw(*゚o゚*)w。
床のモザイク画(騎士団員の墓碑)
身廊の床全体には約400枚のモザイク画で埋め尽くされていますが、これは、騎士団員の墓碑で、名前、碑文、紋章、死をイメージする模様などが色鮮やかに描かれています。
【聖エルモ砦】
ヴァレッタは見どころだらけですが、その中でも聖エルモ砦は、是非、登城したかった城跡です。聖エルモ砦は、15世紀には既に軍事戦略上の重要防衛拠点で同じ場所に小さな砦はありましたが、1551年聖ヨハネ騎士団によって、オスマン帝国軍を迎え撃つべく本格的な砦が建設されました。1565年のオスマン帝国との戦いでは激戦の地となり、多数の騎士が戦死したといいます。聖エルモ砦は、約1ヶ月にわたってオスマン軍の攻撃を凌ぎましたが、最終的には陥落してしまいました。しかし、この砦で必死に抵抗したことにより援軍が間に合い、聖ヨハネ騎士団は勝利を手にすることとなりました。また、第二次世界大戦では、砦が重爆撃にさらされました。
(ヴァレッタ市街との間を断ち切る大堀切)
僅かなフリータイムを与えられ、何はともあれレパブリック通りを半島の先端部へ向かって進むと、空堀が現れました。ヴァレッタ市街と聖エルモ砦を断ち切る堀切ですが、ジグザグになっていることから、聖エルモ砦が稜堡式の城郭であるのがよく分かります。尚、堀は幅10mほど、深さも10mはあるでしょう。なかなか見応えのある空堀です。
建物礎石と城壁
聖エルモ砦は、半分は破壊された状態ですが、立派な礎石が残っています。門(写真左)がありましたが、そこは閉まっていて入城できません。入城口を散々捜して、やっと見つかったのですが遅かりし・・・(/。ヽ)。砦と戦争博物館の周囲を廻ることしかできませんでした。それでも、当砦が、今も軍事要塞の趣きが残っているのが実感できましたが、やっぱり残念無念(;>_<;)。
半島先端部
半島先端部には監視塔のようなのが建っていました。聖エルモ砦へはこの脇の道を入って行くのですが(/。ヽ)。
リカゾーリ砦
半島先端部(聖エルモ砦)からは、対岸の岬先端部のリカゾーリ砦がよく見えます。リカゾーリ砦は、17世紀の後半に造られた砦で、対岸にある聖エルモ要塞と共にヴァレッタの重要な拠点となっていました。これだけ狭い海峡の両側に要害堅固な砦があったら、そう簡単に敵艦も通ることはできませんね。
マルサイムシェット・ハーバー
聖エルモ砦の西側のマルサイムシェット・ハーバーの対岸にもマヌエル砦(中央奥)があり、これまた鉄壁の構えです。当写真は、戦争博物館の城壁脇から撮ったものです。