城址に建つ中館観音寺の本堂、脇には大きな城址碑が
仙台伊達氏発祥の地
別名
中館
所在地
茨城県筑西市(旧下館市)中館、中館観音寺
形状
平山城
現状・遺構等
現状:中館観音寺
遺構等:曲輪、土塁、櫓台、空堀、堀切、石碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/06/24
歴史等
天慶3年(940)平将門が騒乱を起こした時、これを平定するため藤原秀郷(俵藤太)が、上館・中館・
下館の3館を築いたと云われている。
伊達氏初代朝宗の本領は、ここ常陸国真壁郡伊佐荘中村にあったので、伊佐氏または中村氏を名乗った。
朝宗が文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に4人の子供を従軍させ、伊達郡(福島県)阿津賀志山の戦いに大功があり、伊達郡を与えられ
「伊達」を称した。ちなみに、伊達は古くは「イダテ」と読み、後に「ダテ」に転訛したといい、政宗がローマ法王にあてた書状にもローマ字で
「イダテ」と書かれているとのことである。
朝宗の長男為宗はこの常陸の本領を受け継ぎ、次男の宗村が伊達領を受け継いだ。
南北朝時代に入り、伊達行朝(行宗)は北畠顕家を霊山城
(福島県伊達郡霊山)に迎え、奥州南朝の拠点として尽忠した。顕家が戦死後は、北畠親房に従って、旧地の伊佐城に住み、関城、
大宝城と相呼応し、
籠城・奮戦したが、興国4年(康永2年、1343)11月、高師冬の軍が来襲し、陸奥に逃れた。
『「戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「下館城址説明板」
より』
現況・登城記・感想等
伊佐城は、当初、予想していたよりは遺構が多く残り、見物しがいのある城址であった。しかも、観音寺の本堂の方から入っていったので、
本堂の周りだけかと思っていた。念のため、下の方(南)へ降りて行ったら曲輪が次々と・・・。本当に予想外の展開に、思わずにんまり!(笑)
伊佐城も、この辺りの多くの城がそうであるように、河岸段丘城に築かれた城である。
観音寺本堂前に建つ、非常に立派な石碑以外に、案内板等が全くなく城域さえもよく分からなかったが、北は観音寺本堂裏の空堀跡で、
南は観音堂南の堀切までであろうか。東側は、五行川の流れに削られた崖で天然の要害になっている。西側は宅地化により、
城域は分からなかった。
城郭は、観音寺本堂が建つ北側が高く、最も低い南の観音堂が建つ曲輪へ塁段になっている。
各曲輪の周りには土塁があるが、これは後世のものであろう。
「観世音堂の堀切の所に、『国宝中館観世音』と彫られた石碑が建っていたが、堂の前には市指定文化財となっていた。どちらが本当?
この観世音堂は、確かに国宝でもおかしくないくらい立派な建物で、建物の彫刻も素晴らしい。」等々考えていたが、後で調べたら、
観音寺の本尊「延命観世音菩薩像」が国指定重要文化財だそうだ。おそらく高知城等と同様、
戦前までは国宝であったものが、戦後昭和25年の「文化財保護法」により重要文化財指定に変更になったものであろう。
(2007/06/24登城して)
ギャラリー
㊧観音寺本堂(本丸跡?)と、
㊨立派な石碑
こんな立派な石碑があるのに説明板が全くない
本堂裏の櫓台跡
以前はもっと素朴な土塁だったようだが、
石を組んで妙に綺麗になって・・・。
本堂裏に残る土塁跡
本堂裏側(北側)には土壇があるが古墳だそうだ。最手前(写真下)
は空堀跡?
本堂の一段下の曲輪
各曲輪の周りには土塁があるが、
これは後世のものであろう。
その曲輪には最後の藩主石川総管の墓が
石川氏は総茂から八代総貨に至るまで、江戸下谷の大久保寺を葬地としている。下館に葬られているのは最後の藩主総管のみである。
その曲輪への門
上写真の門への道と土塁(土塁右は本堂の2段下の曲輪)
塁段になった曲輪
城郭は、観音寺本堂が建つ北側が高く、最も低い南の観音堂が建つ曲輪へ塁段になっている。山城の腰曲輪は勿論であるが、どうも私は、
塁段になった曲輪には点数が甘いようだ?
東側はそれほど高くはないが、五行川に削られた、まあ天然の要害(崖)
かな
最も南の曲輪跡に建つ観音堂とその彫刻
観音堂の南側堀切に架かる橋と「国宝中館観世音」
と彫られた石碑
橋下の堀切?
橋は、観音寺への参道の橋