下野 唐沢山城(佐野市)

本丸南西部下の高石垣

関八州を一望に収める山城

別名

根古屋城、橡木城

所在地

栃木県佐野市富士町1409

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 唐沢自然公園(山林、唐沢山神社) 、国指定史跡
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、空堀、堀切、竪堀、枡形虎口、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2006/10/09

歴史等

唐沢山城は藤原秀郷(俵藤太)が天慶三年(940)に築城を始め、同五年(942)に落成したと伝えられている。その後、いつしか廃城となったが、鎌倉幕府の下家人である佐野氏(秀郷の子孫)再興して、その本拠とした。
戦国時代の下野(特に南部地域)は、上杉氏と後北条氏の攻防の舞台となった。そのような状況下で、佐野氏は、弱小戦国大名であったが、唐沢山城の天険を頼りにして、巧みな外交術によって独立を保とうとした。しかし、後北条氏の圧力には抗し難く、佐野氏は北条氏康の六男氏忠を養子として迎え入れるという形で、その支配下に組み入れられた。
天正18年(1590)後北条氏が豊臣秀吉に滅亡させられた小田原の役に際して、佐野一族の天徳寺了伯は秀吉に従って功績を上げ、唐沢山城を後北条氏から取り戻すことに成功した。その後、了伯は佐野房綱と名乗り、佐野の名跡を継ぐとともに、秀吉から佐野領3万9千石を安堵された。この時、城の大改修を行なっている。現在残っている高石垣はこの時のものであるといわれている。
房綱は文禄元年(1592)隠居して、秀吉の家臣・富田知信の次男・信吉に家督を譲った。信吉は関ヶ原合戦に際しては徳川方に与したので所領を安堵されたが、慶長7年(1602)徳川家康より唐沢山城を廃して、春日岡(佐野市)に移転するように命じられた。一説には、山城禁止令に唐沢山城が抵触したため、平城である春日城(佐野城)に移転させられたと云われている。
しかし、次のような事件が唐沢山城の廃棄に繋がったとも伝えられる。
慶長7年(1602)2月に起きた江戸の大火に際して、唐沢山城からも、その様が遠望された。驚いた信吉は江戸城へ駆けつけた。本来なら、徳川家の大事を思い、急ぎ参じた信吉は報償されるべきであろうが、逆に、予告なしに江戸へ出府したことを責められ、唐沢山城を廃棄するように命じられたとも云われている。つまり、外様大名の佐野氏が江戸の大事を即刻知ることができる山城に居を構えていては、徳川氏にとって不都合であるということだったのであろう(現在でも、唐沢山城跡からは、関東平野が一望のもとに見渡せ、冬晴れの日のは富士山まで望める)。
佐野氏は、唐沢山城を廃棄させられただけでなく、慶長14年(1609)信吉の実家・富田氏の改易に連座して、新城・春日城と領地をも没収されてしまう。
『日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)より』

現況・登城記・感想等

唐沢山城は、関東七名城の一つであり、関東には珍しく石垣が多く使われた山城です。
唐沢山城は、唐沢山の山頂部に本丸(現在は唐沢山神社の社殿が建てられている)を置き、そこから西・北東・南東の三方に延びる尾根上に曲輪を配した連郭式山城です。
西側が大手で、西に向かって二の丸・三の丸・天徳丸(西城)を階段状に設けられています。
東側が搦手で、北東に向けて堀切で区切った長門丸・金の丸・杉曲輪・平とや丸(北城)の4つの曲輪が配されています。
南に向かっても、南城等数段の曲輪が配置されています。
本丸や引局、南城周辺には高さ8mを超える苔むした高石垣が見られますが、これらの石垣は安土桃山時代に近江国の穴太衆によって築かれたもので、関東地方には珍しく織豊系築城技術が用いられています。
唐沢山城は、これら曲輪や石垣・堀切・空堀、土塁・枡形虎口等々の遺構が尾根上だけでなく、山腹や山麓にまで及ぶほどの壮大な規模の山城です。
勿論、幕府に城を廃棄されたほどですから、天狗岩(物見櫓跡)から眺める東京方面の景色は見事です。
(2006/10/09登城して)

【関東七名城】
金山城(群馬県太田市)、常陸太田城(茨城県常陸太田市)、 厩橋城(群馬県前橋市)、宇都宮城(栃木県宇都宮市)、川越城(埼玉県川越市)、忍城(埼玉県行田市)とこの唐沢山城を指す。

ギャラリー

唐沢山城跡案内図  ~クリックにて拡大画面に~
唐沢山城は、唐沢山の山頂部に本丸(現在は唐沢山神社の社殿が建てられている)を置き、そこから西・北東・南東の三方に延びる尾根上に曲輪を配した連郭式山城です。
西側が大手で西に向かって、二の丸・三の丸・天徳丸(西城)を階段状に設けられています。東側が搦手で、北東に向けて堀切で区切った長門丸・金の丸・杉曲輪・平とや丸(北城)の4つの曲輪が配されています。南に向かっても、南城等数段の曲輪が配置されています。

唐沢山城縄張図1

唐沢山城鳥瞰図(パンフレットより) ~画面をクリックにて拡大~
唐沢山城は曲輪や石垣・堀切・枡形虎口等々遺構が尾根上だけでなく、山腹や山麓にまで及ぶほどの壮大な規模の山城です。
唐沢山城縄張図2

枡形虎口(城内側から)
規模は大きくありませんが綺麗なな枡形虎口です。
枡形虎口

天狗岩(物見櫓跡)
天狗岩2

天狗岩(物見櫓跡)からの眺望 ~クリックにて拡大画面に~
ここからの眺望は、今まで見たどの城址からのものよりも見事なものでした。残念ながら当日は、天気が良すぎて?南方向が逆光で東京や富士山は見えませんでした。
眺望1

眺望2

大炊井
築城の際、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとのことです。深さ9m、直径8mあり、今日まで水が涸れたことがないそうです。
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神橋
旧名、曳橋と云い四ツ目堀切に架けられた吊橋で、架撤自在のものであったという。
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四つ目堀
神橋に下の堀で、当時はもっと深かったと思われます。
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帯曲輪
三の丸下の帯曲輪です。写真右は三の丸への石段です。
帯曲輪

三の丸
三の丸

二の丸
二の丸

二の丸・武者詰間の虎口
二の丸武者詰間虎口

武者詰め
武者詰

二の丸から本丸への虎口
本丸虎口

本丸跡に鎮座する唐沢山神社
唐沢山山頂部の本丸跡には、城主佐野氏の祖であり最初の築城者でもある藤原秀郷が祀られた唐沢山神社が鎮座しています。
唐沢山神社

引局(奥女中の詰所)から本丸を見上げる
引局から本丸を

高石垣
本丸や引局、南城周辺には高さ8mを超える苔むした高石垣が見られますが、これらの石垣は安土桃山時代に近江国の穴太衆によって築かれたもので、関東地方には珍しく織豊系築城技術が用いられています。
DSC03640

DSC03667 

南城跡
本丸より南にある所から南城と呼ばれます。南北18m、東西36mあります。天気の良い日には、東京の高層ビルが眺められるが、残念ながら逆光のため見えませんでした。 
南城

車井戸
当時、茶の湯に使用された井戸で、「がんがん井戸」ともいわれ、深さ25m余あり龍宮まで続くとも云われています。
DSC03660

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