上野 前橋城(前橋市)

本丸(県庁)西側の土塁

上杉・北条・武田氏の攻防の城も、江戸期には利根川の激流に苦しみ川越藩の分領に

別名

厩橋城

所在地

群馬県前橋市大手町、群馬県庁周辺

形状

平城(崖端城)

現状・遺構等

現状:市街地(群馬県庁、前橋公園他)
遺構等:土塁の一部、車橋門跡の石垣、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2001/08/17
2008/06/17

歴史等

前橋は古くは厩橋といった。厩橋城が築かれたのは15世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の一族長野佐衛門尉方楽と推定されている。 以後長野氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄3年(1560)には長尾景虎 (上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。この後、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。
天正10年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に入って関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、 城は北条氏の手中に帰した。ついで天正18年(1590)4月、小田原征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。 同年8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城3万3千石に封じた。親吉は治政11年をへて、慶長6年(1601) 甲府に移り、代って川越から酒井重忠が入封、 以後9代百数十年の間、酒井氏の藩政が続いた。
5代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延2年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。 代って姫路から松平朝矩が入封したが、 酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は幕府に願って、明和4年(1767) 川越城へ移城した。
以後、前橋城は廃され8万石に近い城付領は約百年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。 この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願した。文久3年(1863)12月、幕府から再築の許可を得、慶応3年 (1867)3月竣工して城が実現した。しかし、わずか半年で大政奉還となり、廃藩置県後、城郭は廃された。
『前橋城跡案内板』より

現況・登城記・感想等

前橋城跡には、今は本丸跡に立派な県庁舎が建っている。往時暴れまくったという利根川の対岸から眺めるその威容は実に存在感があり、 今昔の感がある。
遺構と言えば、土塁と車橋門跡の石垣くらいのものであるが、県庁舎の北東部から北側、西側へ廻る4mほどの高さの、 立派な土塁はなかなか見応えがある。
尤も、元々の前橋城本丸跡は、利根川の度重なる洪水により流失してしまい、今の利根川の河心辺りであったそうだ。そして、 今の県庁辺りは三の丸であったそうで、慶応3年(1867)3月に、新しく竣工した時に、本丸となったそうである。
県庁の裏(西)へ廻って利根川を見下ろすと、白いしぶきを跳ね上げて流れるさまは、往時の「暴れ利根川」が偲ばれる。
(2001/08/17、2008/06/17訪れて)

ギャラリー

慶応3年再建時縄張図(車橋門跡説明板より)      ~クリックにて拡大画面に~

本丸跡に建つ群馬県庁舎
前橋城跡には、今は本丸跡に立派な県庁舎が建っている。 往時暴れまくったという利根川の対岸から眺めるその威容は実に存在感があり、今昔の感がある。残念ながら、利根川対岸からの写真は、 時間等々の都合で、撮れなかった。折角、庁舎32Fは展望ホール、31Fが観光物産展示室&展望レストランになっているのに、 登るのを忘れた!?


【土塁、土塁、土塁・・・】
前橋城の遺構と言えば、 土塁と車橋門跡の石垣くらいのものであるが、県庁舎の北東部から北側、西側へ廻る4mほどの高さの、立派な土塁はなかなか見応えがある。

(本丸北東部の土塁)
県庁前の道路に面した土塁は、北東部に一部だけ残っている。折角、階段が造られているのに、 土塁に登らないようにとの案内板がある。

(本丸北東部隅の土塁&石碑)
北東部隅の土塁上には大きな石碑が立っている。旧前橋藩ゆかりの人などにより明治41年(1908) に建てられ、前橋城の由来と碑の建設経過が記されているが、時を経て、あまりにも薄くなり、読めなくなってるので、 その解説板が隣に設置されていた。尚、碑の標題は城主の子孫松平直之氏が筆をとったとのこと。
 

(本丸北側の土塁)

(本丸北西部隅の土塁)
この辺りの土塁は、L字形になりかっこいいのだが、植樹された木々等のため、うまく撮れなかった。 この写真では、よく分からないですよねえ!?

(本丸西側の土塁)
この本丸西側の土塁は、非常に長く続き、折れもあり、一番見応えがあるのだが、多くの木々が生え、 写真で撮るのは難しい!


車橋門跡石垣
外曲輪から城内に至る門で、 第4代藩主酒井忠清(1637~81)の代に、冠木門から渡櫓門に改築された。昭和39年の区画整理事業により、 間隔が狭められ西側の台石が東へ8m移動されている。

暴れ利根川
元々の前橋城本丸跡は、 利根川の度重なる洪水により流失してしまい、今の利根川の河心辺りであったそうだ。この利根川の白いしぶきを跳ね上げて流れるさまは、 往時の「暴れ利根川」が偲ばれるようだ。

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