上野 木部城(高崎市)

城址の心洞寺山門、手前に「木部城主之廟所」の碑が

源頼朝の弟・範頼の裔・木部氏の平城

所在地

高崎市木部町(心洞寺)
心洞寺:高崎市木部町246、電話027-346-6610

形状

平城

現状・遺構等

現状:心洞寺
遺構等:土塁の一部

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2009/02/08

歴史等

木部(きべ)城は、源範頼(頼朝の弟)の孫・吉見二郎義世の子孫と称する木部氏が築城したといわれる。
木部氏は、もと石見国木部郷に居て、姓を木部と称したが、木部範時の娘が古河公方成氏の室であったので、関東に移り築城したと伝えられる。
また、木部城は低地にあり、城塞として充分な地形ではないため、この城を里城とし、旧寺尾下城 (前城)を改修して要害城を構えた。
木部範虎の室は箕輪城主・ 長野業政の娘であり、武田信玄が西上州に侵入を開始するや、範虎は業政に従って各所に転戦したが、業政の没後、武田勢に木部城・ 山名城を落されて箕輪城に退いた。
永禄9年(1566、永禄6年説もある)、箕輪城が落城したとき、 木部範虎は下野へ逃れようと乱軍中を脱出したが、妻や多くの一族が討死し、結局範虎も武田方に降った。
範虎はその後、武田信玄、勝頼に仕えたが、天正10年(1582)3月、天目山にて武田勝頼に殉じた。
武田氏滅亡後、範虎の子・貞朝は滝川一益に従ったが、本能寺の変によって一益が関東を退去したのちは北条氏直に従った。
天正18年(1590)、小田原落城後、 北条氏直は助命されて高野山へ蟄居したが、貞朝もそれに従った。後、大坂に出て没したという。
『群馬の古城・山崎一著(あかぎ出版刊)他参照』

現況・登城記・感想等

木部氏の菩提寺である心洞寺の敷地が木部城址で、境内には木部氏の墓がある。
遺構としては、山門脇から木部氏の墓所にかけて土塁の一部が残っているだけである。
(2009/02/08訪れて)

ギャラリー

土塁
山門脇から木部氏の墓所にかけて土塁の一部が残り、そこには「木部城主之廟入口」の案内碑(写真右) が立っている。

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コメント

阿部和彦(2010/03/07)

初めてメ-ルします。いろいろ参考にさせて頂いています。有り難うございます。
ところで木部城をほとんどの人が心洞寺としていますが、山崎一さんの資料では心洞寺の南西、安楽寺の北側となります。タイコウ設計事務所当たりが1郭で、南の道路に「堀之内組氏中」の標柱が立っています。荻原工業所あたりが2郭となり北側の小川の北が旧河川敷の様です。
もし、既に行かれましたらご容赦願います。

タクジロー(2010/03/07)

阿部さま
ありがとうございます。
心洞寺の南西から安楽寺の北側にかけてが城址ということになるのでしょうか?
そうすると、心洞寺の土塁は、外郭の土塁ということでしょうか?
それだけの規模であっても不思議ではないですね。
近くに行く事がありましたら寄ってみたいと思います。
今後も、いろいろ教えて下さい。

阿部和彦(2010/03/10)

お手持ちの山崎一著の「群馬の古城」にもある様に木部城と木部氏館(心洞寺)は別物の様ですね。
航空写真と山崎さんの見取図とを併せてみるとよく判ります。

タクジロー(2010/03/10)

なるほど、それで何となく分かりました。ありがとうございます。
早速、見比べてみます。
木部城の立地は、平坦地であるし、別に館を構える理由は何だったのでしょうね?
また、詰の城として、寺尾城は遠すぎるような気ももしますが・・・?

阿部和彦(2010/03/10)

歴史のことは殆どが後世の人の創作か推定ではっきりしませんが、木部城と山名城はもともと別の城で、近くにあった山名城を改修して木部城の詰めの城としたからではないですか? 平井城と平井詰城(金山城)も、ここほどではないですが結構離れています。山名城と一緒に造れば今の山名館あたりになるのですかね!

タクジロー(2010/03/11)

確かに、観音寺城の六角氏など、攻められると、いつも遠く離れた甲賀にまで逃げこんでいたんですものね。

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