本丸南西隅に建つ模擬天守
長久手の戦いで秀吉の部将池田恒興と激戦を交え家康側の勝利の一因となった城
所在地
愛知県日進市岩崎町市場67番地
岩崎城址公園:日進市岩崎町市場67番地、電話0561-73-8825(岩崎城歴史記念館)
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 岩崎城址公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、土橋、井戸跡、模擬天守&模擬櫓門、石碑、遺構案内板、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2011/02/27
歴史等
岩崎城は、享禄年間(1528~31)織田信秀(信長の父)により築城され、その後、松平氏に奪われたのち、天文7年(1538)丹羽氏清が本郷城から移ったと言われ、以後、氏識・氏勝・氏次(勘助)の4代に渉って居城した。
氏識・氏勝父子は、松平氏と織田氏との間にあって、双方から従属を強いられたが、家康が信長と同盟を結んだのち信長に従い、信長の死後は家康に属した。
天正12年(1584)小牧長久手の戦いの際に、秀吉が犬山城に本陣を構えて小牧山城の家康と対決した時、氏次は小牧山城に駆けつけ、そのあとは弟で傍示本城主の氏重が城代として守った。そして、秀吉の部将池田恒興らが徳川方の本拠岡崎城を奇襲するため、岩崎城下を通過した時、氏重は寡勢ながら戦いを挑み、城兵300余名が討死した。この奮戦により一時池田勢が食い止められ、家康方が長久手で勝利を得る一因になった。
その後の岩崎城は不明な部分が多いが、丹羽氏次は北伊勢に6千貫の所領を受けて移ったと考えられることから、岩崎城は織田信雄の支配下にあったものと思われる。
しかし、信雄は、天正18年(1590)の小田原の役後に、東海地方の家康旧領への移封命令を拒否したため、秀吉の怒りを買い、改易されて下野烏山(一説に那須とも)に配流され、豊臣秀次、次いで福島正則が尾張に入っている。
そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際に、家康の命により、再び丹羽氏次が岩崎城に入り、岩村城の田丸氏との戦いや関ヶ原合戦で戦功をあげ、その功により伊保(現豊田市)1万石の大名となり、岩崎城も廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」「愛知の山城 ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」他より』
現況・登城記・感想等
岩崎城は、小高い丘の上に築かれた平山城で、現在は城跡公園として整備されている。
城の縄張は、丘の最高所に櫓台があり、その南側が本丸で、本丸の北は二の丸、西に西曲輪、東に東曲輪(西曲輪と東曲輪は未整備状態)が配置されている。
それぞれの曲輪の間には空堀が設けられている。これらの空堀は、比較的規模も大きい上、良好に残っており見応えがある。
本丸跡には歴史記念館とその南東一画に昭和62年(1987)に建てられた3層4階の模擬天守と、それに続く模擬櫓門がある。
また、昭和59~61年度の発掘調査で発見された隅櫓や井戸跡が復元平面表示されている。
二の丸は、本来は馬出曲輪であったとも考えられている。
現在、二の丸跡には二の丸庭園があり、勘助の井が造られている。
昭和62年(1987)の公園化にあたって、模擬天守が建てられたりして、一部、遺構が取り壊されたりしたようだが、土塁や空堀跡等々の遺構が比較的良好に残されている。
(2011/02/27登城して)
ギャラリー
岩崎城跡公園案内図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
【本丸跡】
模擬天守と櫓門
バブル期の昭和62年(1987)、本丸跡南東隅に三層四階の模擬天守が建てられた。ただ、この時に一部遺構が取り壊されたのは何とも残念だヽ(`⌒´)ノ。
最近なら、遺構を取り壊すなんてことはしないんだろうけどねえ。
歴史館記念館
本丸跡北西の櫓台跡の手前には歴史記念館が建てられ、岩崎城の歴史や城跡からの出土品などが展示されている。写真右奥は模擬天守。
隅櫓復元平面表示
昭和59~61年度の発掘調査の際に、建物遺構の中で、唯一礎石を有した建物が本丸南東部の張り出し部分に発見され、その後埋め戻されたが礎石の様子が復元平面表示されている。縦横共に一間(約181cm)間隔ごとに5つの礎石が配置され、4間×4間の建物であったことが分かる。岩崎城築城初期の遺構で、隅櫓の原初的な形態のものであったと考えられる。
井戸跡
発掘調査で素掘りの井戸(内径2.4m)が確認され、隅櫓復元平面表示の北側に井戸跡が復元表示されている。周囲には井戸の覆屋のものと思われる柱が6ヶ所、また厨房、排水路の遺構が検出されているそうだ。
御座の間跡(丹羽勘助・古城之趾の碑)
本丸南西隅に「丹羽勘助・古城之趾」の石碑が立っている。「長久手征伐記(1709年・赤林信獅著)」に長久手の古戦場を訪ねてきた著者が岩崎城にも足を運んだおり、この石碑付近の様子を「御座の間の趾(殿様のいた所)」とし、「立石の手洗所、梅の木の庭・・・・」と記しており、この立石が古くからあったことが知られるという。明治40年(1907)、岩崎城主丹羽氏の菩提寺の妙仙寺の隆城和尚が、この立石に「丹羽勘助・古城之趾」の文字を刻んだという。その後、落城の日の4月9日には討死した岩崎城兵の慰霊祭が営まれているそうだ。
櫓台
本丸の北の最高所に櫓台がある。写真は二の丸側から撮影したもの。
表忠義の碑
櫓台上には表忠義の碑が建てられている。廃城後は、岩崎城跡は300年以上も整備されることは無く、本丸跡は畑となっていた。明治43年(1910)に旧尾張藩士らの手により、岩崎城の戦いで戦死した丹羽軍将兵を慰めるため、「表忠義」の題を持つ記念碑が本丸の櫓台に建てられた。題字『忠義を表す』は最後の将軍徳川慶喜の書であり、徳川家康への忠義を表すという意味である。
【空堀】
本丸と二の丸間の空堀に架かる土橋
岩崎城は空堀(箱堀)によって曲輪が区画されているが、本丸と二の丸間に唯一の土橋が築かれていた。
本丸と二の丸間の空堀
曲輪を区画する空堀は、規模も大きい上、良好に残っており、岩崎城址の最大の見どころである。堀の右側が櫓台、左側が二の丸で、正面奥に土橋が架かっている。
【二の丸跡】
二の丸庭園
二の丸跡には、二の丸庭園が造られている。庭園は名古屋城三の丸庭園を参考に日進市の形を表現しているそうだ。
勘助の井(水琴窟)
二の丸庭園には水琴窟のある「勘助の井」が造られている。多くの人が知っている山本勘助ではなく、「丹羽勘助氏次」にちなみます。
二の丸土塁
二の丸は、本来は馬出曲輪とも考えられており、北側周囲を土塁がめぐっている。写真では土塁だと分かり辛いが、実際には、比較的分かりやすい。