飛騨 高山城(高山市)

本丸跡とそこに一部復元された石垣

金森長近が大修築し入城、町並みは「飛騨の小京都」の佇まい

別名

天神山城、多賀山城、白雲山城

所在地

岐阜県高山市空町城址公園

形状

山城(標高686m、比高103m)

現状・遺構等

現状:城山公園(山林)
遺構等:復元天守跡(屋形石垣)、二の丸跡、三の丸跡、土塁、堀、石垣、石碑、説明板、金森長近像

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2003/04/29

歴史等

室町時代になると、京極家の被官多賀徳言が文安年中(1444~)天神山城(多賀山城ともいう。現在の城山)を築いた。後、永正年間(1504~)高山外記が天神山(現在の城山)に城を築き、外記の城の近くを高山と呼ぶようになったという。
戦国時代になると、三木氏が南方から高山へ進出して、高山外記らを攻略し、松倉城を築城。さらに北方の江間氏を滅して飛騨を手中に収めた。しかし、富山の佐々成政と同盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主金森長近に飛騨の攻略を命じた。長近は、養子可重と2隊に分かれて三木氏を攻め、天正13年(1585)飛騨を征圧した。
天正14年(1586)、金森長近は飛騨国3万3千の石の国主として入府した。長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後3年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。
また、城と同時に城下町の工事も行われている。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところ(三町)を町人の町とし、京都になぞられて東山に寺院群を設けた。農民一揆の対策としては、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院)を高山城と向かい合わせに配置し、人の心を安め、宗和流茶道を始め、寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行った。
関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知1万8千石、河内国金田3万石が加増されている。
高山における金森氏は6代107年間続いたが、元禄5年(1692)7月28日、「頼とき(縦に:山+ウ+日)」の時代に突然、 出羽国上ノ山に転封となって金森氏による政治は終わった。
「よりとき」は上ノ山に5年間居たが、元禄10年(1697)、今度は美濃国郡上藩に転封となった。「よりとき」は江戸芝の屋敷で亡くなり、孫の頼錦が後を継ぎ、幕府の奏者役を命ぜられた。そのため多くの費用を必要としたこともあり、年貢を定免法から検見取りに改めたため4年半にわたる「宝暦郡上騒動」が起っている。
これで金森の本家は取り潰されてしまったが、分家の旗本左京家は3千石のまま越前に領地替えになり、現在も越前市(旧武生市)に子孫が在住している。
金森氏移封後の飛騨は幕府直轄地となり、代官には関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀が高山城在藩を命ぜられた。元禄8年(1695)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全て終えて帰藩した。
『サイト・高山市観光情報より』

現況・登城記・感想等

高山市内は古い町並み等がよく残り、人気の観光地で多くの人(特に女性)が訪れてきて賑やかであるが、この高山城址ではほとんど人に出会わなかった。
高山城は加賀藩前田家により徹底的に破壊されたそうであるが、本丸の石積みが復元されていたり、所々に石垣の一部が残っている。
又、登城道も整備がされ、ツツジの花(特に深山躑躅)が綺麗に咲いていたり、森林浴を兼ねながら散歩するのに絶好である。
(2003/04/29登城して)

ギャラリー

高山城跡へ
高山市街から高山城に至る道の脇には多くの深山ツツジが咲き、きれいでした。
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大手門
往時の大手門ではなく後から造られたもので、大手道はこの門の右にあったそうです。
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登城道
大手門から城内へ入り、本丸へ向かう道は綺麗に整備されていますが、山城の雰囲気は充分堪能できます。
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本丸跡に一部復元された石垣(平成8年に復元)
高山城は、元禄8年(1695)、幕府の命を受けた加賀藩により徹底した破却を受けた。かつては山上・山腹にあった曲輪には石垣が多く存在したが、現在は部分的に残る程度である。かつての曲輪の広がりについてはおよそ把握することが可能であり、過去の発掘調査に基づき石垣の一部が復元された。
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三の丸の石垣
三の丸には、一部石垣が残っています。
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三の丸の水堀
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金森長近像
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