二の丸と周囲をめぐる土塁
北条早雲の終生の本拠
所在地
静岡県伊豆の国市韮山韮山
形状
平山城(標高:50m、比高差:35m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、虎口、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
1992/06/26
2002/08/15
2004/12/25
2008/03/01
歴史等
韮山城の最初の築城については明らかではないが、「北条五代記」によると、文明年間(1469~1486)堀越公方・足利政知の家臣外山豊前守が城を築いたのがはじまりとされている。
室町幕府8代将軍足利義政の時代、幕府は関東公方の反抗勢力を抑えるために弟(一説には兄)京都嵐山天竜寺の僧・香厳院殿を還俗させ関東に向かわせた。「足利政知」である。しかし、政知は関東方の抵抗が強く箱根を越えることが出来ず韮山堀越の地に館を構えた。「堀越御所」である。その後、政知が亡くなると堀越御所に相続争いが起った。政知の長男の「茶々丸」が継母とその子潤童子や家臣を殺害したのである。
この混乱に乗じ、延徳3年(1491、最近は明応2年:1493年説が本流)北条早雲こと伊勢新九郎長氏は足利茶々丸を堀越公方館に討って、伊豆支配の拠点として韮山城の本格的な築城に取り掛かった。天ケ嶽を中心に、北西に本城域、北東に江川曲輪、南西に土手和田砦・和田島砦、さらに南方に岩戸山砦を配した分散的な城郭域であった。
早雲は伊豆平定後、さらに小田原の大森氏を滅ぼした。早雲はこの城をこよなく愛し、小田原城を奪ってからも、生涯韮山城を本拠とし、関東の制覇を目指した。後北条氏は2代の氏綱から小田原城を本拠として関東に勢力を持つ一大戦国大名となった。
時は過ぎ、天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原征伐にあたり、小田原城の支城である山中城へ7万人余の兵、韮山城へ4万人余の兵を向かわせた。山中城は僅か半日で落城したが、韮山城は3千人余の兵で、城主北条氏規(氏政の弟)は3ヶ月も守りぬき、落城することなく徳川家康の勧めにより開城した。
その後、小田原北条氏は滅亡し、韮山城も慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、廃城となった。
『「韮山中学校・歴史読本(韮山)」、「歴史群像シリーズ・真説戦国北条五代(学研刊)」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
韮山城と云えば北条早雲であり大いに興味を持って登城しました。秀吉軍が手こずったわりには大した城構えではないなと思いながらも、それなりに満足して帰りました。
しかし、この城は単にひとつの城と考えたら間違いですね。城池を挟んで江川砦(曲輪)を構え、また韮山城南には天ケ岳砦、土手和田砦、和田島砦、岩戸山砦(金谷砦)を配し、天ヶ岳砦を見張りの砦とし、武士団を土手和田砦、和田島砦の近くに配した総合的な城郭と見做すべきですね。
(2004/12/25訪城して)
久し振りの登城です。土曜日にも関わらず、江川邸へ訪れる人は結構いましたが、韮山城跡には、会社の同期O氏と私の2人だけでした。それほど高い山でもなく訪れやすく、しかも遺構も結構残っているのに何故でしょうね。
さて、韮山城は、三の丸、権現曲輪、二の丸、本丸、南曲輪と5つの曲輪を南北に連ねた典型的な連郭式平山城で、三の丸を除く曲輪跡が良好にが残っています。また、権現曲輪・二の丸・本丸各間の堀切も残り、二の丸への枡形虎口も往時の面影をよく残しています。
ただ、各曲輪に案内板が全くなく、もう少し、宣伝に力をいれてもいいのにと思うのは私だけでしょうか!?
(2008/03/01登城して)
ギャラリー
韮山城本城域の図(現地資料館資料より)
秀吉軍攻囲時の韮山城の図(現地資料館資料より)
韮山城址全景
城池越しに韮山城址を見たものです。
登城口(城池側から)
三の丸・権現曲輪間の堀切
三の丸は、韮山高校のテニスコート等になっており、その時の工事で、この虎口(堀切)も多少改変されているかもしれません。
権現曲輪
曲輪の周囲を土塁が巡り、熊野神社が祀られています。
二の丸・権現曲輪への枡形虎口
中世城郭の典型的な虎口で往時の面影を非常によく残しています。
権現曲輪・二の丸間の堀切
この堀切は非常に見応えがあります。左側は御座敷へと通じ、右側は上写真の虎口へと通じています。
二の丸
二の丸(写真奥)の周囲を巡る土塁は良好に残っています。手前は本丸と二の丸間の堀切をつなぐ土橋です。
本丸
本丸は、最高所にありますが、あまり広くはありません。土塁は東側(写真奥。城池側)に残っています。
塩蔵
穴蔵のような曲輪で、籠城用の食料や武器、弾薬の貯蔵庫です。
御座敷跡
城主の館があった所で、今は韮山高校の校舎が建っています。北条早雲もここに居住していたのでしょうが、これでは往時を偲ぶのは無理ですよねえ!?