遠江 大平城(浜松市浜北区)

北尾根の堀切

南北朝時代に南朝方についた井伊氏の本拠三嶽城の東方を守る支城

読み方

おいだいらじょう

所在地

静岡県浜松市浜北区大平字城山
【アクセス】
浜松市中心部から、浜北区(旧浜北市)へ向かい、さらに県道68号線で大平主要部へ向かって行くと、「城址橋(看板有り)」へ出る。その奥に見えるのが大平城で、橋を渡って、300mほど進むと、右手に説明板等が設けられた駐車場があり、その奥の急な石段が登城口。

形状

山城(標高102m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2011/01/16

歴史等

大平城は南朝側についた三嶽城(浜松市引佐町)を本拠とする井伊氏の支城の一つとして築かれた。
井伊氏は、三嶽城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、北を天山城(別名田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城(浜松市三ケ日町)、東を大平城と、支城で固めた。
大平城の南朝軍と足利尊氏の命を受けた高師泰が率いる北朝軍の攻防戦は、暦応2年・延元4年(1339)から翌3年・興国元年(1340)にかけて繰り広げられた。
暦応2年7月22日、北朝軍の高師泰の軍が大平城に侵攻し、高師兼の軍は浜名方面に侵攻した。7月26日に鴨江城が落城し、10月30日に千頭峯城が落城した。そして、翌年の暦応3年(1340)正月30日に三嶽城が落城すると、井伊道政は宗良親王と共に大平城に立て籠もったが、8月24日に大平城も、高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍によって落城した。
こうして南朝方は、遠江国で拠点を失い、宗良親王は信濃国へ落ちていき、その後は、大平城は歴史の上にも、記録の上にも登場することはない。
『「現地説明板」、「静岡の山城ベスト50を歩く(サンライズ出版刊)」、「日本城郭大系9」他参照』

現況・登城記・感想等

大平城は、南北約500m、東西約400mの南北朝期の尾根式複郭型山城で、北城と南城の2区画に区分される一城別郭の構造を成している。北城が中枢部で、南城は出曲輪的機能を持っていたと考えられる。
北城の北側と西側は断崖となり、南側は複雑に谷が入った天然の要害地となっている。東側は尾根続きとなっているため大規模な掘割が造られている。
また、南城の南側前方には灰ノ木川が流れ天然の堀となっている。
北城は、最高部にある本丸を中心に東西南北(北は2方向)の5方向にそれぞれ曲輪が階段状に連郭式に延びているが、曲輪の削平は本曲輪も含めて甘く、あまり平らではない。
それぞれの尾根には堀切も設けられている。中でも、北尾根(西側の北尾根)の堀切は良好に残り、見応え充分で、底部からの高さは約5mほどだが、急崖で降りて行くのが怖いほどであった。
登城道は、ボランティアの方によるものか、綺麗に整備され、また古くて見え辛いながらも遺構案内板され設置され有難かった。感謝・感謝だ(^^)。
ただ、西尾根と北尾根は、かなりの急崖でロープが欲しいところだ。登り始めてしばらくしてから降り出した雪で滑りやすく、途中であえなく引き返すはめになってしまった(汗)。そこまで要求するのは贅沢かもネ。
(2011/01/16登城して)

ギャラリー

三嶽城を本拠とする支城群
井伊氏は、三嶽城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、北を天山城(あてやまじょう、別名田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城(浜松市三ケ日町)、東を大平城と、支城で固めた。
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大平城縄張略図

城址橋から見上げる
県道68号線で大平主要部へ向かって行くと、「城址橋」へ出る。その奥に見えるのが大平城。
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駐車場
城址橋を渡って、300mほど進むと、右手に説明板等が設けられた駐車場がある。
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登城口
駐車場の奥の急な石段が登城口。左脇には「大平城趾」の碑が立つ。
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五体力神社
石段を登ると、五体力神社が鎮座している。南城の曲輪の一つであろうか?ここにも縄張図付きの説明板が設置されている。尚、石段途中にも小さな腰曲輪様の平坦地があり、その一つに、この五体力神社の由緒書が刻まれた説明碑が立っている。
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登城道
神社の脇(東側)を抜けると、よく整備された登城道がある。この右(東)側が南曲輪主要部だが、こちらはあまり整備がされていないようだ。
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谷越しに北城方面を望む
登城口から登り始めて7~8分。登城道を登り切ると、谷越しに北城が見えてくる。この谷、まさに天然の巨大空濠である。
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北城中腹に石碑が
上写真の谷を左手に見ながら大きく廻り、大手道を登り中腹まで来ると、ここにも「大平城址」の碑が立っている。
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本曲輪
登り始めて13~14分で本曲輪にたどり着く。本丸は円形に近い不整形で、あまり広くない。削平が甘いのでどこからどこまでが本曲輪の地か分かり辛く、面積等も出すのが難しい(苦笑)。
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北腰曲輪
本曲輪の奥(北)下段には、北腰曲輪(右手前)と北曲輪(右奥)が設けられている。
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東曲輪
本曲輪から東に延びる尾根には東曲輪群が階段状に設けられている。
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東尾根の堀切
東曲輪群をどんどん東に向かって進むと、堀切が現われる。堀切とその向こう側の土塁がなかなか良好に残って見応えがある。
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一緒に付き合ってもらった浜松在住のK米さんに、堀の深さが分かるように立ってもらった。5m強といったところでしょうか。
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堀切を渡って東側の土塁上から振り返って撮った写真で、その高低差がかなりのもであることが分かって戴けると思う。また、堀切中央に土橋が設けられているのが見える。
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土塁
堀切を渡り、さらに東へ進むと、右手に土塁状の地形が現われた。土塁の外側は腰曲輪のようになっていた。このような場所に土塁が築かれるのは、南北朝期の城としては珍しいのでは?
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さらに東尾根を
さらに、どんどん東へ進んでも、藪に隠れながらも、それとなく堀割様の地形が分かったが、だんだんシダ類や潅木が増えてきて進入が難しくなってきたので、敢無く退散(汗)。
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西曲輪群へ
一旦、本曲輪へ戻り、西尾根(写真左から右下へ向かう)に延びる西曲輪へと向かう。西尾根は、東尾根に比べ、少し傾斜が急なようだ。
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西尾根堀切
西尾根にも堀切が設けられているが、かなり埋まっていて分かり辛い。
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堀切・竪堀
堀切(上写真)は、両側共に竪堀となって山裾へ落ちていっている。
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西尾根をさらに・・・
堀切を渡り、さらに西尾根を進んで行くと、傾斜はさらにきつくなってきて、真下に道路が見えてくる。写真では、それほどには見えないが、実際には35度くらいはあるだろう。おまけに、先程から降り出した雪で、滑りやすくなり、迷った末、これ以上降りるのを諦め引き返した(汗)
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北(西側)尾根
本曲輪近くまで戻り、2筋ある北尾根の西側の尾根へ・・・。西尾根側から見る光景が、如何にも出曲輪っぽくてかっこ良いと思う。
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北(西側)尾根の堀切
北(西側)尾根は短く、すぐ堀切が現われる。この堀切は、実に良好に残り、見応え充分だ。底部からの高さは約5mほどだが、急崖で降りて行くのが怖いほどだった。
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しかし、空堀ときては降りていかないわけにはいかない。杖をつきつき、少しだけ残った細い切り株を掴みながら、やっと降りて撮った写真である。右上に立つK米さんを見てもらえば、その感じが分かるでしょう。
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堀切を渡り土塁上から振り返って撮った写真ですが、それなりの迫力は伝わるでしょうか?
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土塁の向こう側
強烈な崖で、登って来れるような代物ではない(笑)。勿論、引き返します( ̄ー ̄;。
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北曲輪群
北(東側)尾根もかなり傾斜がきついところに、北曲輪群が塁段に延びている。
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21北(東側)尾根を
北(東側)尾根を降りて行くと、強烈な崖道になる。雪で滑る上に、木は勿論、切り株もないので、掴まるものがない。崖下に空堀らしき地形が見えたので、ズームアップして撮影だけして、敢え無く退散(汗)。
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22北(東側)尾根空堀をズームアップ!
明らかに堀切か空堀の地形(上3分の2の部分)ですが、どうでしょうか?
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23南曲輪群
南の尾根にも階段状に曲輪が延びている。南尾根は割り合い幅があるので、それなりに広い曲輪になっている。
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コメント

通りすがりの名無しさん。(2022/03/22)

こちらの名称は「おいだいらじょう」が正しいです。地名は難しいですね。

タクジロー(2022/03/22)

通りすがりの名無しさん
ご指摘ありがとうございます。
確かに、案内板にも「おいだいらじょうし」とふりがなが、またその横の標柱にもローマ字で「REMAIN OF OIDAIRA CASTL(Lの後ろのEが抜けていましたが)」とありました。
それも見たはずなのですが、すっかり頭の中で決め付けて読んでしまったようです。
早々に直します。
ありがとうございました。

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