山城 伏見城(京都市)

伏見城花畑跡に建つ鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣「伏見桃山城」

秀吉の中国征服計画で、明の講和使節を迎える目的で築かれた城

別名

指月城

所在地

京都府京都市伏見区桃山御陵

形状

平山城

現状・遺構等

遺構:一部の建物は二条城平等院浄土院養林庵書院などの京都の社寺に移築、石垣は淀城大阪城の修築に使用。城門は大手門が伏見区御香宮神社表門や、西本願寺唐門、二尊院総門、平等院南門、上京区観音寺山門など数棟が現存。櫓は福山城伏見櫓と江戸城伏見櫓等が現存。横浜市中区の三渓園には諸侯控え室が現存。

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

1994/11/05
2003/02/24

歴史等

伏見城は、豊臣秀吉の「中国を征服する」という計画の中で、明の講和使節を迎えるセレモニーに相応しい豪華な建物をという目的と、自らの隠居城として、文禄元年(1592)に宇治川沿いの丘陵である指月山に築城を命じた。築城にあたって、諸大名には1万石につき200人の賦役を課し、25万人が工事にあたったという。
完成は着工2年後の文禄3年(1594)であるが、文禄5年(1596)の大地震で城郭は破壊された。秀吉は直ちに旧知よりやや東北寄りの桃山(現在の木幡山)の地に新たに築城し直したが、慶長3年(1598)秀吉はこの城で没してしまった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の緒戦で焼失するや、徳川家康は畿内諸大名を動員、徳川の力を示す城として再建され、江戸幕府の西国支配の拠点となった。しかし、大坂の陣が終わると、伏見城の役割は大坂城へ移り、幕府にとっての重要性は薄れた。そして、徳川家康が駿府城を隠居城として築いて移ると、伏見城の廃止が決定され、元和9年(1623)の徳川家光の将軍宣下を最期に、正式に廃城が決定した。
廃城後は桃の木が植えられ、これが桃山と呼ばれる元となったという。伏見城本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(桃山御陵)とされたため、立ち入りが禁止されているが、1964年、やや離れた伏見城花畑の跡に鉄筋コンクリート造りの模擬天守閣「伏見桃山城」が建設された。
廃城後、建造物は各地に移送された。大手門と車寄せは京都の御香宮神社に移築されており、福山城・江戸城にも伏見櫓が、そして大阪城膳所城、尼崎城にも櫓が移築されたという。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

典型的な模擬城である。見た目には実に美しい。残念ながら、伏見城本丸跡などの主郭部分は、明治天皇陵(桃山御陵)となっているため立ち入りが禁止されているが模擬天守からは、今は鬱蒼と茂る木々に覆われた伏見城跡を一望出来るのがせめてもの慰めか?
また、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が、2003年1月にスポンサーだった近鉄のリストラの一環として閉園したが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、取り壊しを免れたとのこと、まずは目出度し!
(1994/11/05訪城して)

平等院へ行ったついでに、15年ぶりに訪れた。
勿論、以前見た時と多くは変わらないが、2003年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が閉園したこともあり、模擬天守の中へは入れないとのことだ。
一度、伏見城跡でもある明治天皇稜へ行こうと思い立ち、公園の南側の山(伏見城跡)の周囲を西側から南側へと廻りこむように降りて行くと、山は切岸のような崖になっており、途中、水堀跡のような大きな池も発見。
山の西側の坂を降り切ると、東へと向かう広い砂利道の参道があった。参道の山(北)側は切岸のような崖、右(南)側は絶壁で、伏見城の往時の様子が何となく偲べるような気がした。
そして、参道脇に並べてある大きな石を発見。伏見城の石垣の石だそうだ。
大急ぎで歩いたが、天皇陵の入口(勿論立入禁止)に立つ鳥居のところまで、15分近く掛かった。それだけ伏見城は広かったということだ。どうやら、天皇稜裏の木幡山とその西隣の2つ山が伏見城跡らしい。
山中へは入って行くわけにはいかないが、切岸様の崖や水堀跡らしき池、さらには石垣の石を見付けただけでもめっけものと嬉しくなった (*^_^*)。
ところが、大事なものを見忘れたことに気が付いた! すぐ近くにある桃山東小学校と御香宮神社だ。小学校には伏見城の復元石垣列が、また御香宮神社には移築大手門(表門として使用)と石垣の石があるのだ(汗)。
(2013/02/24登城して)

ギャラリー

模擬大手門
模擬大手門とはいえ、大きくて立派なものだが、御香宮神社の表門として移築された大手門とは随分違うようだ。
01城門

模擬天守
天守部分は旧状のまま伏見のシンボルとして公開されてはいるが、天守内部への入城はできない。前回(1994/11/05)登城した時にあった周りの松の木が除去されてしまっているようだ。
02天守閣

天守下から伏見城跡(明治天皇稜)方面を望む
大手門の背後に見える鬱蒼とした山並みが伏見城跡。
03伏見城跡を

水堀跡?
公園の南側の山(伏見城跡)の周囲を西側から南側へと廻りこむように降りて行くと、山は切岸のような崖になっており、途中、水堀跡のような大きな池を発見!
04池

参道
伏見城跡の南側に明治天皇稜への砂利道の広い参道があり、しばらくすると右手(南側)に大きな石が並べて置いてあるのを発見! 平成19年に地下水道管移設工事の際に出土したもので伏見城の石垣の石のようだ。
05参道

伏見城の石垣の石(平成19年地下水道管移設工事の際に出土)
石は実に大きくて立派なもので、矢穴や刻印も確認できる。石垣の石は、近くにある京都市立桃山東小学校や御香宮神社にもあるようだが、行き忘れた(汗)。
06石垣の石

明治天皇稜と木幡山
大急ぎで歩いたが、天皇陵の入口(勿論立入禁止)に立つ鳥居のところまで、15分近く掛かった。それだけ伏見城は広かったということだ。どうやら、天皇稜裏の木幡山とその西(写真左)隣の2つ山が伏見城域のようだ。
07明治天皇稜

明治天皇稜をスームアップ
08明治天皇稜

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