天守曲輪(左から小天守・大天守・一の門南櫓)
加藤嘉明築城の日本三大平山城は現存天守が残る
別名
勝山城、金亀城
所在地
愛媛県松山市丸の内1丁目
形状
平山城(標高132m)
現状・遺構等
現状:城山公園、三の丸は国立病院、市営野球場、競輪場、市民会館、美術館、博物館等々
遺構等:曲輪、石垣、土塁、水堀、井戸、石碑、説明板、遺構案内解説板
【現存建築物】大天守、一の門南櫓、二の門南櫓、三の門南櫓、隠門続櫓、野原櫓、
乾櫓、穀蔵、戸無門、隠門、紫竹門、一の門、二の門、三の門、仕切門、
他に塀7箇所
【復元建築物】小天守、櫓、門、塀
満足度
★★★★★
訪城日
2007/05/02
歴史等
松山城の創設者は加藤嘉明である。嘉明は三河(愛知県)生まれ、父教明は徳川氏の家臣であったが、嘉明が6歳の時に逝去する。やがて、羽柴秀吉に見出され家臣となり、20歳の時、賎ケ岳の合戦にて七本槍の一人として武勲を挙げ、淡路・志知城主1万5千石を与えられ淡路水軍を統率することになる。その後も水軍の将として武功を重ね、伊予・松前6万石の城主となり、「文禄・慶長の役」等の活躍により10万石に加増された。
慶長5年(1600)の「関が原の合戦」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、手狭な伊予松前城から移転して新城を築くこととし、足立重信を普請奉行に命じ慶長7年に着手し、翌年には居を新城下に移し、初めて「松山」という名称が公にされた。。その後も、工事は継続され、24年後の寛永4年(1627)になってようやく完成した。当時の天守は5層で偉観を誇った。
しかし嘉明は、松山にあること25年、同年、会津若松40万石に転封された。
その後へ蒲生氏郷の孫・忠知(祖母は織田信長の二女冬姫・母は徳川家康三女振姫)が、出羽上ノ山(山形県上山市)から入国し、二の丸の造築を完成したが、寛永11年(1634)8月参勤交代の途中病没(30歳)し、嗣子のいない名門蒲生家は、松山存城7年余りで断絶する。
1年近くの番城時代を経て、寛永12年(1635)7月に伊勢桑名より徳川家康の甥である松平定行(家康の異父弟の松平定勝の嫡男)が15万石で入城した。
寛永19年(1642)、定行は幕府に配慮して嘉明の5層天守を三層に改築、また楼櫓を修築した。この三層の天守は天明4年(1784)元旦、落雷により焼失してしまった。
打ち続く天明大飢饉による藩財政の圧迫などにより再建は遅れ、36年後の文政3年(1820)に再建工事に着手し、35年の歳月を経て安政元年(1854)に復興した。これが、現在の天守閣である。
久松松平氏は、徳川親藩として定行から数えて15代続いて版籍奉還となった。
『パンフレット参照』
【名物・タルト】
松山の名物にタルトがある。正保元年(1644)、長崎に入港したポルトガル船警備のため、松山藩は幕府より長崎警備を命ぜられた。この時、藩主定行は、ヨーロッパから長崎に伝えられたこの洋菓子の製菓技術を藩士に学ばせた。それが松山城下に持ち帰られ、和風味をくわえた銘菓につくりあげられたそうである。
現況・登城記・感想等
松山城は、姫路城・和歌山城とともに日本三大平山城の一つである。本来なら、山麓から登城し、半日以上たっぷりかけて廻りたい城であるが、時間の関係もあり、今回はロープウェイを利用した。
ロープウェイから降りて本丸方面へ歩いて行くと、早速、本丸南面と巽櫓下の見事な高石垣が見えてくる。そして、戸無門へと進むが、ここから見える「前面に太鼓櫓、遠くに天守、そして天守方面に続く屏風折れの高石垣」の光景は見事であり、これぞ「お城」といった感じである。次に、戸無門、筒井門、太鼓門とくぐると本丸に出る。本丸は細長いが、実に広い。
天守は、どちらかというと高くはなく、幅広であるが、形が良く、そして黒を基調とした中に、一部漆喰の白壁の調和がとれていて、重厚感があり、本当に素晴らしい。
松山城は、天守をはじめ現存建築物が多く「わびさび」といったものも感じられる(私みたいな人間がいうのはおこがましいかな?!)が、かと言って古臭くもない。
天守上からの眺望も素晴らしいのだが、残念ながら春靄であまり遠くまでは眺めることは出来なかった。
二の丸が山の中腹にあるが、次の予定があるので諦めた。この城は、またいつかじっくり廻って見たいものである。
(2007/05/02登城して)
ギャラリー
松山城本丸縄張り図
松山城遠景(道後温泉旅館から撮影)
残念ながら、今日も晴れてはいるものの春霞で、松山城の姿も今ひとつだった。
本丸南面と巽櫓下の見事な高石垣
ロープウェイで山上であがると、長者ヶ平という曲輪へ・・・。本丸方面へ歩いて行くと、早速、前方には本丸南面の石垣、右手奥には巽櫓下の石垣が見えてくる。どちらも打込みハギの見事な高石垣ですが、特に巽櫓下の石垣のカーブは実にきれいです。
揚木戸門跡
さらに西へ歩いて行くと揚木戸門跡が・・・。慶長年間、松山城創建のはじめはここに門があり、西の大手門とともに大手の入口の重要な拠点となっていたという。当写真は城内側から撮ったものです。左石垣上の建物は筒井門と隠門です。
筒井門(復元)と太鼓櫓(復元)を高石垣下から ~クリックにて拡大画面に~
揚木戸門跡をさらに西へ進むと、右手に本丸上の建物が見えて来ます。左上が太鼓櫓で、右上が筒井門です。筒井門の手前下の小さな門は戸無門です。
本丸西面最南部石垣下から太鼓櫓と天守を望む ~クリックにて拡大画面に~
いよいよ本丸へ向かうと、高石垣の上に太鼓櫓が見え、さらに遠くには天守も見えます。
太鼓櫓を見上げる
本丸へ向かうべく、まずは太鼓櫓の下へ。櫓の角には石落としが見えます。このまままっすぐ進んでも本丸へは到達できず、ここでUターンして、また南へ進むこととなります。
戸無門(現存)
戸無門は、昔から戸がないので戸無門と言われる。この戸無門と筒井門・隠門とで仕切られた所は、二の丸・三の丸から本丸へ通ずる本丸大手の正門の固めであり、城中最も重要かつ堅固な場所です。
筒井門(復元)とその隣の隠門(現存)
筒井門は本丸大手の正面を固める重要な門です。隠門は、筒井門とともに大手正面の固めを構成し、また筒井門を側防するもので、慶長年間の建造物と云われ、松山城の櫓門で最も古いものの一つです。
巽櫓(復元)を本丸南曲輪から
太鼓門(復元)を本丸内から
筒井門(or隠門)をくぐり抜けると、次に太鼓門が現れます。この太鼓門をくぐり抜けると本丸で、当門が本丸への最後の砦ということになります。当写真は本丸内から撮ったものですが、筒井門に負けず劣らず立派な門です。
本丸
本丸は細長いが、実に広い。
井戸(本丸南部に)
直径2m、深さ44.2mで飲料水として使用されていたそうです。
天守曲輪へ向かう
天守曲輪(左から、小天守・大天守・一の門南櫓) ~クリックにて拡大画面に~
天守は、どちらかというと高くはなく、幅広であるが、形が良く、そして黒を基調とした中に、一部漆喰の白壁の調和がとれていて、重厚感があり、本当に素晴らしい。
松山城は、天守をはじめ現存建築物が多いが、どれも古さだけを感じさせたりしない。かといって「わびさび」といったものも感じられる。
紫竹門東塀(現存)
いよいよ天守曲輪へ向かいます。天守曲輪前のこの紫竹門東塀は、乾門方面からの攻撃に備えたもので、天明4年(1784)に雷火のために天守とともに焼失し、嘉永期(1848~54)に再建されたとみられるそうです。紫竹門自体はこの塀の裏側にあり、天守曲輪の西にある乾門方面から本丸へ向かう際に通る門です。
天守曲輪入口から天守(現存)を見上げる
天守曲輪へ向かうと、正面に大天守、左に小天守、右手前に一ノ門南櫓が建つ枡形虎口へ出ます。一ノ門南櫓の奥(写真右奥)に一ノ門があります。そして、一ノ門から二ノ門、三ノ門を通り、大天守へと向かいます。
一ノ門(現存)
一ノ門を入ると、二ノ門までは四方を囲まれた枡形虎口となっています。
ニノ門(現存)
一ノ門をくぐって出た枡形の左手にニノ門があります。
三ノ門
二ノ門を出てすぐ左へUターンすると三ノ門です。
三ノ門南櫓(現存)
三ノ門を入るとまた櫓と塀に囲まれた枡形虎口に出る。三ノ門正面の櫓は三ノ門南櫓、右側の土塀は筋鉄門東塀、左側は三ノ門東塀です。筋鉄門東塀の下は天守曲輪への枡形虎口になります。
筋鉄門(復元)と小天守(復元)
三ノ門の次の門が筋鉄門(すじがねもん)です。柱を鉄板で補強してあるためこの名が付いたとのこと。写真は門の内側から見た筋鉄門および小天守(2層2階)です。筋鉄門の左側は大天守、右側が小天守で、筋鉄門の上の櫓は大天守〜小天守間の通路となっています。筋鉄門は天守曲輪中庭に通じる重要な櫓門です。この門の櫓は小天守と大天守の通路になっていて、三の門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。小天守は大手方面を防衛し、搦め手方面を側防し、二の丸・三の丸方面を監視することの出来る位置にあり、城内の櫓の中でも天守閣についで重要な櫓であることからこの名があります。
南隅櫓(復元)を天守曲輪中庭から
天守からの本丸方面の眺望 ~クリックにて拡大画面に~
残念ながら、春霞のため絶景とはいかない。天気に恵まれたら最高の眺望であろう。