門川城南東の空堀と土橋
日向一円を支配した伊東氏48城の1つで、日向三城の一つ
別名
狗山城(いぬやまじょう)
所在地
宮崎県東臼杵郡門川町門川尾末
門川町役場の200m程南の国道10号「門川町中須信号」を西へ入ります。800m程西進して右手に法泉寺を過ぎ、更に800m程西進すると道路右手に門川城跡の標柱が立っています。ここを右折して100m程北上すると、道路左手にお城の説明板があります。ここが説明板脇が登城口です。ここからもう少し北上して民家を通り過ぎると道が多少広くなっており、空き地もあるので、そこに駐車可能です。
法泉寺:門川町門川尾末2805、電話0982-63-1279
所要時間
登城口から本丸下まで2~3分、今回の見学時間は10分ほどでした。
現状
平山城(比高約20m)
現状・遺構等
【現状】 山林、畑
【遺構等】 曲輪、空堀、土橋、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/11/30
歴史等
門川城は、中世に日向一円を支配した伊東氏の城の1つで、日知屋城、塩見城と共に「日向三城」と呼ばれた。
長禄元年(1457)、都於郡城主伊東祐堯は、小浪川の合戦で財部土持(たからべつちもち)氏を滅ぼしてその領地を獲得し、その頃に門川城を築いたと思われる。
天正年間(1573~92)には、伊東氏の家臣米良四郎右衛門が城主であった。
米良四郎右衛門は天正6年(1578)、大友氏と島津氏が争った「高城川の戦い」で戦死したが、その後、門川には島津氏の支配が及んだと思われる。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州統一によって門川一帯は県城(延岡城)主高橋元種の領地となり、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。
『「現地説明板」、「日本城郭大系」ほか参照』
現況・登城記・感想等
門川城は、水田に囲まれた比高20mほどの低い丘に築かれた規模の小さな城であるが、往時は、この水田は胸まで浸かるような泥田であり、容易に近づくことができない要害の地であったという。
説明板脇から城跡へ向かうと、二の丸と三の丸の間の空堀があり土橋が架かっているのが見えますが、その光景(TOP写真)が妙に気に入りました(*^_^*)。
土橋を渡り、丘の上へ登って行くと、すぐに二の丸へ出ます。二の丸跡は鬱蒼とした林で、右手上が本丸跡です。
本丸の虎口付近には、竹が積まれて登れないようになっていました。地主さんが意識的に登れないようにしているのだろうと思い、諦めて戻りました(/。ヽ)。
(2013/11/30登城して)
ギャラリー
門川城縄張り略図(現地説明板より)
門川城東南の空堀と土橋
土橋両側の堀は、往時は胸にまで浸かるような泥田であったといい、唯一、この土橋が城へ近づける道であったと想像すると、門川城跡はかなり低い丘の上にありますが、要害堅固な城であったのでしょう。
東側の堀
この辺りの堀跡は、果樹園として利用されています。
南側の堀
南側の堀跡は、畑として利用されています。城(二の丸)の切岸は、結構急崖になっています。
二の丸と本丸切岸
土橋を渡り、丘の上へ登って行くと、すぐに二の丸へ出ます。二の丸跡は鬱蒼とした林で、右手の切岸上が本丸跡です。
本丸への虎口方面
本丸の虎口付近には、竹が積まれて登れないようになっていました。地主さんが意識的に登れないようにしているのだろうと思い、諦めて戻りました(/。ヽ)。