上総 久留里城(君津市)

本来の天守台の隣に建てられた復興天守

里見氏、全盛期の居城

別名

雨城

所在地

千葉県君津市久留里
【アクセス】久留里の町に入れば案内があるのですぐ分かると思いますが、二の丸跡に建つ「久留里城址資料館」を目指して下さい。
久留里城址資料館:君津市久留里字内山(城山公園内)、電話0439-27-3478

形状

山城(標高:145m、比高:102m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 復興天守閣、天守台、曲輪、土塁、堀切、竪堀、説明板、遺構説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2006/01/08
2014/04/17

歴史等

戦国時代の16世紀中頃、西上総地方は真里谷武田氏の勢力下にあり、久留里城(くるりじょう)もその一族の居城であった。上総武田氏は甲斐武田氏・武田信満の子・武田信長に始まる家系である。信長は古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められ同国を支配した。信長の息子・信高の死後、次子は庁南城に、長子は真里谷城に本拠を構えた。
天文年間(1532~55)の後半になると、安房の里見義尭が上総に進出し、上総の本拠地とした。
永禄7年(1564)、下総の国府台の戦いで、里見氏は後北条氏に敗北、久留里城も一時、後北条氏の手に落ちた。しかし2年後、里見氏は久留里城を奪還し、上総の大半と下総の一部を制圧した。その後、再三にわたり後北条氏に攻められたが久留里城は落とされることはなかった。しかし後北条氏の勢力に押され、天正5年(1577)、里見義弘は後北条氏と和睦した。義弘の死後、家督を継いだ里見義頼は安房岡本城を本拠とし、久留里城には城番が置かれた。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、里見氏は遅参のため豊臣秀吉により上総領を没収され安房一国だけとなった。
以後、関東は徳川家康の支配となり、久留里城には大須賀忠政が3万石で入城したが、慶長6年(1601)遠江横須賀へ転封となり、慶長7年(1602)には、2代将軍秀忠付近習土屋忠直が2万石で入城した。江戸の土屋邸で生まれた後の儒学者新井白石は、土屋家2代目の利直に仕え、18~21歳までの青年期をこの久留里で過ごしている。3代目の頼直の時、お家騒動が起こり、延宝7年(1679)、狂気を理由に改易、廃城となった。
約60年後の寛保2年(1742)、上野沼田より黒田直純が3万石で入封し、幕府から5千両を拝領し、3年の歳月をかけ城を再興した。黒田氏の治世は、初代直純から約130年間続き、9代直養の時、明治維新を迎え、明治5年(1872)、城の建物は解体され、久留里城の幕は閉じられた。
『「現地説明板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」より』

現況・登城記・感想等

登城前は、所詮、天守が復興されただけの平山城だろうと、あまり期待もしていなかったが、遺構がよく残り、かなり見応えのある城跡でした。
久留里城は、標高120~145mの尾根上に構築された本丸と、その西方約150m離れた二の丸を中心に、四方に延びる尾根に設けられた曲輪で構成される。
本丸跡には、元々の天守台脇に復興天守が建てられ、北端には物見台と思われる高い土塁がある。
二の丸跡には資料館が建てられているが、周辺には薬師曲輪・久留里曲輪が往時の様子をよく残している。
薬師曲輪跡からは眼下に広がり、大手門跡・搦手門跡・三の丸御殿跡等々の案内板があり、往時の様子を窺い知ることができる。
本丸と二の丸の間には堀切はなく、土橋のような痩せ尾根一本で繋がっている。
二の丸から北方に延びる尾根には、良好に残る堀切を確認できた。
ところが、本丸から北方に延びる尾根にも良好に残る堀切や曲輪跡があるようで、遊歩道も整備されているらしいが、2度も登城したにも関わらず見落としてしまった(;>_<;)。また、いつか再登城することにしましょう( ̄ー ̄;。
(2006/01/08、2014/04/17登城して)

ギャラリー

久留里城案内図(資料館パンフレットより)
00久留里城案内図

久留里城遠景
近世久留里城の搦手門付近から撮ったものです。山上に建つ天守というのは、やはり絵になります。
02久留里城遠景

登城 
最初は、駐車場の入口手前から二の丸に建てられた資料館へ登るために造られた車道(一般車進入不可)を登って行きます。往時の道は、右手の切岸の上です。 
04登城口

大手道へ向かう
車道をしばらく登って行くと、右手に往時の登城道へ登る階段があるので登って行きます。
06登城道へ

二の丸と古久留里城方面の分岐
階段を登り切ると、道は左右に分かれます。左は二の丸跡(資料館)方面、右は古久留里城方面になります。
08登城道

古久留里城方面へ
取り敢えず、右手の古久留里城方面へ向かいます。この道が、往時の大手道のようです。
10大手道

古久留里城曲輪跡
上写真の道を少し進むと、結構広い平坦地へ出ます。古久留里城の曲輪跡でしょうか? 勿論、近世久留里城時代にも利用可能だったでしょうが。この平坦地を入って行くと、古久留里城を経由して、江戸時代の安住陣屋跡に建つ久留里小学校へ下りて行くことができるようです。今回は、ここで分岐点へ戻って近世久留里城の二の丸跡を目指します。
12大手道

火薬庫跡
分岐点の戻り、二の丸跡へ向かって行くと、右手に「火薬庫跡」が。火薬庫の奥は8mほどの切岸が確認できます。
16火薬庫

井戸??
さらに登って行くと、右手に洞穴がありますが、井戸跡でしょうか?
18洞穴

堀切
さらに登って行くと、堀切が現れます。本来はかなり大きい堀切ですが、尾根の東側が車道のため削られて、片側堀切になってます。
20堀切

さらに堀切が
さらに進むと、またまた堀切が現れます。
22堀切1

堀切から落ちて行く竪堀
上写真堀切の右側の写真です。山麓までは落ちて行ってないようですが、かなりの規模です。
22堀切2

二の丸直下のお玉が池
堀切を渡って、二の丸へ向かうと、二の丸直下に平坦地があり、そこに「お玉が池」というのがあります。説明板によると、「久留里城の二の丸は水源が無かったので、城主里見義尭は家臣の兵馬に池を掘るように命じた。ところが、ある時、兵馬が池を掘っていると兵糧庫が焼失し、火の不始末の疑いで捕らわれの身となります。それを聞いた城将の小川秀政の娘「お玉」はこれを哀れんで、かわりに池を掘り続けますが、兵馬は打首となってしまします。その後、兵馬の疑いが解けるとお玉は髪を切り兵馬を弔ったそうです。」とあります。 
24お玉が池

二の丸土塀
二の丸跡に築かれた土塀下の道を歩いて行きます。
26二の丸へ

薬師曲輪跡
二の丸土塀下の道を進むと、二の丸より一段低い「薬師曲輪跡」へ出ます。ここには「里見北条古戦史」について載せられた石碑(写真奥)が立ち、左上には「八幡神社」が祀られています。

28薬師曲輪

薬師曲輪跡からの眺望
「薬師曲輪跡」からの眺望は素晴らしく、大手門跡・搦手門跡・三の丸跡、外曲輪跡等々が見渡せ、往時の様子を窺い知ることができます。
30眺望

二の丸
二の丸跡には「君津市立久留里城址資料館」が建てられています。入館無料です。
32二の丸跡

二の丸の長屋塀跡
二の丸の西側(写真の辺り)には、長屋塀と呼ばれていた多聞櫓のような建物が建っていたそうです。以下説明板より
「この長屋塀は、二の丸の西側に位置し、眼下に三の丸を望む場所に建てられました。本来は、多門櫓に近い性格の建物ですが、寛保年間の絵図に「長屋塀」と記されているところから、この名称を使っています。長屋塀は、細長い形をした長屋風の建物で、用途は主として諸道具を収納する倉庫に用いられていたと思われます。調査の際確認した礎石は、全体の約2分の1程度でしたが、配列状況から判断して、長屋塀の規模は絵図に記載されている通り、ほぼ10間(18m)x2間半(4.5m)であると推定されます。礎石のつくりは、天守台に比べてかなり粗雑で石質も悪く、ノミによる整形の跡がみられます。これらの礎石は、ほとんどが赤褐色の砂岩で、二の丸から切り出した石を使用しています。また、礎石からおよそ1尺(30cm)程離れたところに、軒に沿って瓦が立てた状態で埋められいていますが、これは、軒からの雨だれを受ける「雨落ち溝」の役割を果したものと考えられます。」

長屋塀

久留里曲輪跡
二の丸と車道を挟んで反対(北)側には久留里曲輪跡があります。二段になっていたようです。
36久留里曲輪

三の丸からの登城道
二の丸の西側下に道があります。この道は三の丸から登って来れる登城道ですが、通行止めになっていました。
38三の丸への道

本丸と二の丸間をつなぐ細尾根道
本丸と二の丸の間には堀切はなく、土橋のような痩せ尾根一本で繋がっています。道の両側は急崖です。道端のミツバツツジが綺麗でした。ミツバツツジは君津市の「市の花」で、当城跡区域はミツバツツジ保護地域に指定されており、あちこちでミツバツツジを見掛けました。
40本丸への尾根道

天神曲輪跡
細尾根道を進むと、本丸下の天神曲輪跡へ出ます。この曲輪から、本丸北尾根へ向かう遊歩道があるのですが、行きそびれてしまいました(/。ヽ)。
42天神曲輪

本丸切岸
天神曲輪跡脇をさらに登って本丸へ向かいます。写真左上が本丸跡です。前方の本丸下(写真右端)に「男井戸・女井戸」が見えてきます。
44本丸へ

男井戸・女井戸(おいど・めいど) 
どちらが男井戸でどちらが女井戸か分かりませんが、本丸下に、繋がった2つの溜め井戸があります。説明板には「伝説によると、この2つの溜め井戸は奈良時代の僧良弁によって掘られ、『金剛水』『胎蔵水』と呼ばれたそうです。戦国期の里見氏の時代、北条氏に幾度も攻められたが、この井戸により籠城に耐えることができました。江戸時代、黒田直享氏が城主だった頃から、藩士の結婚式の際に、新郎新婦がこの水を飲み、夫婦の誓いをたてたと言われています。」とあります。
46男井戸女井戸

波多野曲輪
本丸入口のすぐ下には、狭いながらも「波多野曲輪」が設けられています。ここからの眺望もなかなかのものです。
56波多野曲輪

本丸跡に築かれた復興天守
本丸跡に到着すると「立入禁止」の看板が立てられ、天守周囲にはロープが張られていました。大雪により屋根が壊れて危険なため、天守内とその周囲に張られたロープ内は立入禁止なのだそうです。(2014/04/17)
48天守

天守台と復興天守
手前の土台が本来の天守台です。天守は二層造りですが、一般に天守と呼ばれていて、外観もそれなりに再現されているようです。
52天守台と天守

天守台
この土壇は、寛保3年(1743)から延享3年(1746)にかけて、黒田直純が城を再築した際築いたと思われる天守の跡です。礎石群は、昭和52年に実施した発掘調査によって検出され、きわめて貴重な遺構であることが確認されました。礎石の配列は内側と外側の二重に配され、内側は2間(3.6メートル)x2間の正方形、外側は3間(5.4メートル)x5間半(9.9メートル)の長方形を呈し、絵図とほぼ一致しています。これらの礎石の配列状況から判断して、建物は二階二層であったと推定され、近世初期の天守の様式である望楼風天守に類似していたように思われます。礎石は、二の丸から切り出した砂岩を使用しており、いずれも赤褐色で鋸引きの跡が残っています。また、砂岩の中に一部白色のシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)がみられますが、これらは土台石として用いられたと考えられます。天守台の構造は、上面に厚さ10cm程度の粘土を敷き詰め、その下に径2~4cmの石を10cm程並べ、次に若干大きめの石を地山まで詰めているものと推定されます。 また、上部の周囲に回らされている瓦は、土圧から台を守るための措置であると思われます。(説明板より)

50天守台

本丸北側の物見台(土塁)
54本丸土塁

天守裏側の土塀跡
本丸の天守裏側には土塀跡が確認出来ます。当写真は前回(2006/1/8)登城した時に撮ったものです。以下説明板より
「発掘調査によって後側にも土塀が回っていたことが確認されました。礎石に使用されている石は、ほとんどがシルト岩(砂と粘土との中間の細かさを有する岩)で、きわめて密に敷き詰められています。本丸の周囲には小高い帯状の土塁が残っており、表面に漆喰や粘土の塊が認められることから、これらは絵図に示されているように高さ6尺(1.8メートル)、瓦葺き、塗籠の土塀が崩壊したものであると考えられます。なお、調査の結果、この土塀は写真手前の部分で途切れていることが判明し、この付近に出入口が設けられていたことが推定されています。」
土塀跡

 

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