下総 北生実城(千葉市)

弁天池越しに眺める本城(本丸)

原氏vs上総武田氏・里見氏攻防の地

別名

小弓城(おゆみじょう)、生実城(おゆみじょう)、北小弓城(きたおゆみじょう)

所在地

千葉県千葉市中央区生実町1551他

形状

平山城(丘城)

現状・遺構等

現状:市街地、生実神社
遺構等:土塁、空堀、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2006/11/05

歴史等

上総の庁南城第2代武田宗信は、小弓城主原胤隆(一説に行明)と国境問題で紛争を続けたが、 原氏は一族の千葉氏をバックにしていたので、宗信は戦うごとに敗れた。
一族の、この敗戦を見るにしのびない真里谷城主・ 真里谷信勝は、足利成氏の孫の空然が兄の高基と不和で、奥州黒川 (会津若松)の芦名氏のもとに流浪しているのを知り、空然の力を利用することにした。空然を上総へ連れてきて還俗させ、 足利義明と名乗らせると、安房の里見義道を誘い、永正14年(1517)10月14日、小弓城の攻略戦を強行した。
さすがの原氏も、足利義明を総大将とする武田・里見連合にはかなわず、小弓城は15日に落城し、城主原胤隆は討死した。
小弓城を攻略した連合軍は、城を改修して義明の「御所」とした。それ以後、義明は、「小弓公方」と呼ばれ、 鎌倉以来の名族である千葉氏をはじめ、多くの周辺の諸将を従えた。
一方、高基が没し、古河公方の跡を継いだ嫡男の晴氏は、みずからの地位を脅かす義明の討伐を決意、妻の実家である小田原の北条氏綱の援軍を得て小弓城攻略のため房総へ向け軍勢を進めた。
天文7年(1538)10月、足利晴氏と北条氏綱の連合軍は下総国府台で激突。 義明方は義明をはじめ、多くの者が討ち死に、完敗を喫した(第一次国府台合戦)。
以降、上総・安房勢力は南に退き、原胤清は小弓城を奪還し、天正8年(1590)原胤栄が、徳川家家臣・酒井家次との「野田十門字野の戦い」 で戦死するまでの52年間存続した。
その後、一時幕府の直轄領となったが、寛永4年(1627)森川出羽守重俊が生実藩1万石の藩主となり、明治初期まで北生実城の一部に陣屋 (生実陣屋) を構えていた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)、「現地説明板」ほか参照』

この北生実城(北小弓城)と南生実城(小弓城) の関係は不祥な点が多いので、小弓公方も交えた歴史に関しては、南生実城(小弓城)を参照。

現況・登城記・感想等

従来、この北生実城(北小弓城)は国府台合戦後に築城された近世の城で、すぐ南にある南生実城 (小弓城)が、原氏及び後に小弓公方が在城した城とされていたが、近年の発掘による出土品や縄張りの単純なことから、この北生実城 (北小弓城)が本城で、南生実城 (小弓城)は出城だったのではとの説に傾いているとのことを、前日登城した亥鼻城の郷土資料館のボランティアの方から聞いての登城であった。
遺構としては、ほとんどめぼしいものは残っていないのではと思いながらの登城であった。
しかし、本丸や二の丸辺りは、宅地化されてしまっているが、生実神社横の空堀や神社の周りの土塁が良好に残っているほか、 県道66号線沿いには「北小弓城大手口跡」の石碑があり、その奥の土塁もよく残っている。
また、弁天池越しに見る本丸方面の光景も往時を偲ばせてくれる。
(2006/11/05訪城して)

ギャラリー

北生実城と生実陣屋の図(現地説明板より)

生実神社
この付近が最も良好に遺構が残る。写真左側には土塁と空堀があり、土塁は神社の奥と右側にも残っている。

良好な形で残っている土塁(土塁の左側は空堀)

空堀
今でも結構深く、幅もかなり広い。

「北小弓城大手口跡」の石碑
石碑裏の土塁が奥の方へと続いて残っている。

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