大和 椿尾上城(奈良市)

4曲輪北側の空堀と土塁

「大和三大山城」の一つで松永久秀に追われた筒井順慶の反撃の拠点城

読み方

つばおかみじょう

別名

椶櫚城(しゅろじょう)

所在地

奈良県奈良市北椿尾町字城山
【アクセス】
ナビで北椿尾町を指定すると「△城山」が出たので、それを指定してナビに従って進むと行き止まりになりました。車はこの付近に停め、左手の舗装された林道へ入り、道なりに10分程歩いて行くと道が二手に分かれます。そこをチェーンがある右手の道へ行くと城跡です。

所要時間

林道登城口から主郭まで15分、今回の見学総時間は約1時間10分でした。

形状

山城(標高528.7m、比高90m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、畝状竪堀、石垣

満足度

★★★★

訪城日

2016/02/04

歴史等

『筒井諸記』などの記録によると、椿尾上城(椶櫚城)は、筒井順慶が元亀元年(1570)に築いたと記されているが、天文年間(1532~55)に「元の木阿弥の逸話」で知られる筒井順昭(順慶の父)が、本城である平城の筒井城が攻略された時に備え築城したとの説もある。
永禄3年(1559)、多聞山城主・松永久秀が大和を制圧し、筒井氏は国中(大和平野)から追われて山内或いは国外に逼塞した。
元亀2年(1571)、順慶は椿尾上城を本拠に反撃に転じ、「辰市の合戦」で松永久秀をを撃破すると、順慶は次第に旧領を回復していった。
天正5年(1578)松永久秀が信長に対して謀反を起こし信貴山城で自滅し滅亡した後、天正8年(1581)順慶は信長より大和20万石の大名に封じられた。
しかし、大和国内は高取城大和郡山城以外は城郭破却を命じられたため椿尾上城も廃城となった。
『日本城郭大系10他参照』

現況・登城記・感想等

椿尾城は信貴山城龍王山城とともに「大和三大山城」の一つと云われ、かなりの規模を誇ります。
椿尾城は、椿尾上城と椿尾下城がありますが、一般的に椿尾城といえば、この椿尾上城を指すようです。
城跡は、登城道も城跡も多くの部分が整備されていて見やすいだけでなく、曲輪、土塁、空堀、堀切、石垣などの遺構が良好に残り見応えがあります。
縄張りは、北東端の山頂部に本丸を置き、西に向かって曲輪が塁段に幾重にも築かれ、本丸には櫓台と思われるクランク状の分厚い土塁が小さな社(五社大明神)の北側背後に残っています。
しかし、当城の見どころは本丸周辺の曲輪群よりも、城の西部分の4曲輪と5曲輪一帯の曲輪群でしょう。西に向けて配置されたこれらの曲輪は、段曲輪の様子が明瞭に見渡せ、切岸や土塁、空堀が良好に残っています。
中でも、特徴的なのは、戦国時代の山城としては、かなり石垣が築かれていたようで、多くの箇所で石垣を見付けることができることです。やっぱり土の城も悪くはないけど、石垣を見付けると嬉しいものです。
ただ、これほど素晴らしい遺構が残る城跡にも関わらず、城址碑や説明板はおろか、ちょっとした案内板さえないのが残念です。奈良市には、神社仏閣等々、もっと他に金のいるものがあるので、城跡なんぞに金を使うのは財政的に無理なのでしょうかねえ。手作りの案内板でも良いから欲しいところですね。
(2016/02/04登城して)

ギャラリー

椿尾上城縄張図(余湖くんのお城のページより)
縄張りは、北東端の山頂部に本丸を置き、西に向かって曲輪が塁段に幾重にも築かれ、本丸には櫓台と思われるクランク状の分厚い土塁が小さな社(五社大明神)の北側背後に残っています。
しかし、当城の見どころは本丸周辺の曲輪群よりも、城の西部分の4曲輪と5曲輪一帯の曲輪群でしょう。西に向けて配置されたこれらの曲輪は、段曲輪の様子が明瞭に見渡せ、切岸や土塁、空堀が良好に残っています。
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登城口
椿尾上城を目指して行くと、通行止めに。車はこの付近に停め、左手のコ舗装された林道へ入って行きます。
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登城道
登城口から6~7分ほど歩いてくると道の両側に土塁が・・・。ここまでに、途中分岐点が2箇所ほどありますが、あくまでも道なりに進みます(基本的に左側の道)。案内板などは一切ありません。
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分岐点(城跡登り口)
登城口から10分ほど進むと分岐点へ出るので、チェーンがしてある右手の道を登って行きます。左側の道を下りて行くと椿尾下城へ出るようです。
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畝状竪堀
右側の道を少し登って行くと、左下に畝状の土塁(空堀)が見えます。これらの土塁(空堀)は、その先で畝状竪堀になっています。
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【城跡西部分(4曲輪~5曲輪周辺)】
チェーンのしてあったところから登城道をしばらく登ると、左手に塁段になった曲輪群が現れます。縄張図の4曲輪と5曲輪です。当城の見どころは、この西部分の4曲輪と5曲輪一帯の曲輪群でしょう。西に向けて配置されたこれらの曲輪は、段曲輪の様子が明瞭に見渡せ、切岸や土塁、空堀などが良好に残っています。中でも、特徴的なのは、戦国時代の山城としては、かなり石垣が築かれていたようで、多くの箇所で石垣を見付けることができることです。
4曲輪北西端へ
左手に段曲輪を見ながら登城道を登って行くと、4曲輪の北西端へ出ます。この登城道が、写真右側の主郭郡(1、2、3曲輪)と写真左側の西部分曲輪群(4、5曲輪)とを区画しています。
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4曲輪見張り台
4曲輪の北西端には見張り台があります。
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4曲輪見張り台上
4曲輪見張り台の上はかなり狭く、石で組まれた小さな祠が祀られています。
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段曲輪
当写真は見張り台の東下の道から撮ったものですが、曲輪が塁段になっている様子がよく分かります。
段曲輪

4曲輪最上段
4曲輪は高低差3mほどの3段からなり、周囲を土塁が取り囲んでいます。最上段は、ほぼ正方形で北側から西側にかけて高さ1~2mほどの土塁が設けられています。
4曲輪最上段

4曲輪北側の土塁
4曲輪北側の土塁はクランク状に折れ曲がっています。
4曲輪北側土塁

4曲輪北側の空堀
4曲輪北側の土塁の外側は空堀がめぐっています。空堀の両側に土塁が設けられています。内側土塁には石垣が残っています。
空堀

4曲輪北側から西側にかけての空堀と土塁
この辺りの土塁には折れがあり、横矢がかかっています。
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4曲輪最下段
4曲輪最下段は南側を土塁、北側を切岸で囲まれた凹地になっています。
4曲輪最下段

4曲輪最下段から5曲輪を
5曲輪は長方形のかなり広い曲輪です。4曲輪最下段との高低差は4m近くあります。
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4曲輪最下段南側の切岸と石垣(5曲輪から撮影)
4曲輪最下段の切岸には全面的に石垣が築かれていたのか、多くが崩れてはいますが、切岸の多くの部分に石垣が顔を覗かせています。全面的に石垣が築かれたのであれば、かなりの高石垣です。
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5曲輪西虎口北側の石垣
5曲輪西虎口の両側にも石垣が残っています。
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5曲輪西虎口南側の石垣
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西尾根段曲輪
4、5曲輪から西へ延びる尾根上にも5~6段ほどの段曲輪が設けられています。
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西尾根段曲輪切岸の石垣
西尾根の段曲輪の切岸にも石垣が設けられていたようで、一部が残っています。
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北側の腰曲輪
4曲輪から西尾根段曲輪の北側下には、かなり幅もある上、長~い腰曲輪が設けられています。
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【本丸(主郭部)へ】
城の西部分(4、5曲輪周辺)を見終わってから、主郭部である本丸へ向かいます。主郭部は、北東端の山頂部に本丸を置き、西に向かって曲輪が塁段に幾重にも築かれていますが、4、5曲輪周辺と較べると、あまり整備がされているとはいえません。
段曲輪
4曲輪の見張り台の南西下から本丸(主郭部)へ向かいます。道の右手上には本丸から西へ延びる尾根上に設けられた段曲輪があり、左下は急崖になっています。
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大堀切
右手上の段曲輪を2段ほど見ながら進むと規模の大きな堀切が現れます。堀底から、本丸側の切岸上までは高低差5m以上あります。
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大堀切の岩肌
大堀切は岩盤を削り取ったもので、堀の両方の切岸に荒々しい岩肌が露出しています。
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段曲輪
さらに段曲輪を右手に見ながら本丸へ向かって登って行きます。
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本丸への土橋
本丸の北側と東側は急崖、西側は切岸、南側は空堀となっており、本丸へは土橋を渡って登って行きます。
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本丸南側の空堀
本丸南側の空堀は幅3mほどで、堀底と本丸上との高低差は3~4mほどです。この空堀にも一部石垣が顔を覗かせています。
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本丸
本丸の多くの部分は薮状態ですが、北側には神社が祀られ赤い鳥居が立っています。
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本丸土塁(櫓台?)
鳥居の背後には、鳥居を囲むように土塁がめぐり、その中央には「大宮姫大神」、「光姫」、「高城」などと刻まれた石が祀られています。土塁は高さは2mほどですが、幅は5~6mほどあり、櫓台と思われます。
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